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「明治」という国家

江戸で初めて電信機の見学

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阿部正弘
阿部正弘

1855年(安政2年)7月13日、江戸のお浜屋敷で、初めて電信機を観たという記録が『村田範正日記』に記されています。お浜屋敷とは今の浜離宮恩賜庭園に当たります。

時の老中阿部伊勢守正弘は同役の久世大和守や新若年寄の鳥居、本多等と一緒にオランダ渡りの電信機を初めて観たというが、実はそれより2年前の嘉永6年6月に、神奈川の浜で電信の実験をしたのが、日本最初の電信の実験で、アメリカの提督ペリーが来航した時のお土産の一つでした。

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征長幕軍の敗退(第二次長州征伐)

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高杉晋作と坂本龍馬

高杉晋作坂本龍馬等が相協力して、幕府の征長軍に抗して、馬関海峡に火蓋を切ったのが、1866年(慶応2年)6月17日の事でした。

将軍徳川家茂自ら総大将で大阪へ陣を進め、各藩兵相呼応して幕府軍は、海に陸に四方から押し迫って来たが、高杉晋作奇兵隊を組織して、頑としてこれに抵抗したのでした。

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井上聞多と伊藤俊輔、俄かの帰朝

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伊藤俊輔と井上聞多
伊藤俊輔(左)と井上聞多(右)

井上聞多(後の井上馨侯爵)と伊藤俊輔(伊藤博文公爵)とが、馬関戦争の報に驚き、遊学中のロンドンから、急いで帰朝したのが1864年(元治元年)6月10日の事でした。

その前年の5月12日、海外の文化に憧れた両人は、手に手を取って外国船に乗込み、ヨーロッパ遊学の密航を企て、先ず英京ロンドンに上陸して、当時日本とは格段の先進国あった彼の地の新文化に驚異の眼を瞠り、政治に学術に風俗に、あらゆる点に於て大いに学ぶ処があり、翻って立後れた祖国の文化を歎き、鎖国主義の幣をつくづくと感じたのでした。

滞留一年も充たぬうちに、たまたま故国の長州が、攘夷主義を実行に移し、外国船と放火を交えて戦闘していると伝え聞き、両人共事の意外に駭然としたのでした。

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幕府の代表、ペリーと久里浜にて会見

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浦賀上陸図

アメリカの提督ペリーが、日米国際関係の交渉のため、浦賀に来航して、鎖国主義の長夜の夢を醒ましたのが、1853年(嘉永6年)6月3日、それより6日目の9日には、幕府の代表で浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄、井戸石見守弘道等が、久里浜で正式にペリーと会見する事となりました。

この日朝から、天気晴朗、米艦サスケハンナ号から13発の祝砲が発せられたを合図に、15艘のボートが久里浜に漕寄せられ、ペリーを始め、水兵、楽隊等300名ばかりが国書を捧げて上陸します。

これに対して日本国の警備兵5千を下らず、海岸から山麓へかけて、総勢物々しく整列している。もしまかり間違って敵対行為となれば、5千の兵の外に、山中にまで伏兵の用意があったというが、米国側でも4隻の軍艦から榴弾砲を放ってこれに応ずる覚悟がありました。

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土佐藩勤王家(平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太)3名の切腹

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土佐藩の勤王家平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名が、青蓮宮の令旨を奉じ、土佐藩の主な門閥家に迫り従来の俗論党佐幕派の空気を、尊王攘夷の一色に改革させようと促したのが、却って危険人物視され、1863年(文久3年)6月8日、3名に、切腹を命じられて、見事に割腹して相果てたのでした。当時平井が29歳、間崎が30歳、弘瀬が28歳の若盛りでありました。

これを知って憤激したのは、同藩の志士武市半平太でした。

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池田屋騒動

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近藤勇

1864年(元治元年)6月5日、京都で池田屋騒動の事件が起りました。

京都四条の小橋に筑前藩の御用を勤める柳家喜右衛門という者が住んでいて、町人にも似合わず沢山の武器を秘蔵しているのが怪しい、と嗅ぎつけた新撰組の近藤勇が、6月5日の早暁、その寝込みを襲って引捕へ、幾重に取調べてみると、前年8月18日の政変で、京都の地から追放同様となった長州藩の不平党が中川宮及び会津容保への復讐として、更に政変を一変させようという密謀がすっかり暴露されました。

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伊東玄朴の大手術

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1861年(文久元年)6月3日、蘭医伊東玄朴が、麻酔薬を用いて片脚切断の大手術をしたという記録があります。

江戸吉原の幇間桜川善孝の子の由次郎という若者が、脱疽を患って次第に重態となり、もう助からぬものと痛く悲観しているのに対し、玄朴は西洋医術から学び得た麻酔薬のクロフォルムを用い、この日右脚切断の思い切った大手術を行ないます。その経過は頗る良好で、やがて手術の傷も治って命を取止めたのでした。

既に命は無いものと覚悟して、寧ろ捨鉢の気味で手術を受けた本人にとって、玄朴先生こそは誠に命の恩人だと大喜びで、遭う人毎に、「この通りだ」と足をまくって見せます。

ある晩のこと、片脚のままで、そっと客席に侍り、左の足一本で舞を踊って見せて大喝采を浴びた。その時も、「膝をまくって見せろ、右足が無いというのは嘘だろう」と皆に言われた程に、彼の患部は立派に全癒していました。

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