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1863年(文久3年) Archive

土佐藩勤王家(平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太)3名の切腹

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土佐藩の勤王家平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名が、青蓮宮の令旨を奉じ、土佐藩の主な門閥家に迫り従来の俗論党佐幕派の空気を、尊王攘夷の一色に改革させようと促したのが、却って危険人物視され、1863年(文久3年)6月8日、3名に、切腹を命じられて、見事に割腹して相果てたのでした。当時平井が29歳、間崎が30歳、弘瀬が28歳の若盛りでありました。

これを知って憤激したのは、同藩の志士武市半平太でした。

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攘夷決行、馬関戦争の火蓋が切られる

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長州砲

江戸幕末における憂国の士の合言葉は「攘夷」の二字にありました。

門戸を開いて外国と通商を開き交誼を結ぶは以ての外、外国人が日本に接近しようとするのは、先づ耶蘇教を広め、やがて日本攻略の野心ありという見解は、200年来国民の抱いた思想で、排他的の長い伝統は幕末に到って最も濃厚となり紅毛人を蛇蝎の如く忌嫌ったのでした。

というのも天草の切支丹一揆以来、外国船の度重なる海辺侵入事件や、開港条約の強請や、国粹尊重等の種々の経路が因をなして、憂国の志士の間に与論囂々と起り、遂に幕府も1863年(文久3年)5月10日を期して、攘夷実行を命令します。

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勤王の志士、将軍家茂の東帰を牽制

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徳川家茂
14代将軍徳川家茂

幕府も14代徳川家茂の代となった1863年(文久3年)3月22日、京都では勤王の志士の間に、猛烈な将軍東帰反対運動が起ります。

当年18歳の将軍家茂は、天下の趨勢に鑑み、従来の幕府中心主義から一歩も二歩も譲り、大義名分に服して京都へ参内、朝廷尊崇の実を挙げました。固より将軍の後見には一橋慶喜あり、越前の松平春嶽あり、その補佐宜しきを得て、幕府の旧弊は着々として改革が断行されていました。

即ち同年3月11日の加茂の行幸には鳳輦に御供し奉って200年来の盛典を復興、君臣の道を全うした事は誠に見上げたものでした。斯くの如く将軍自ら朝廷に奉仕することは、折から紛々たる国内の与論を鎮め、人心を安んずるものとして、勤王の志士一同も大いに我が意を得たのであった。さて将軍家茂にしてみれば、第一の大役を果したものの、まだ攘夷と開港の両問題が残っているので一日も早く京都を引上げようとして焦っていたのでした。

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幕府の反対を押切って京都に親兵隊を設置

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1863年(文久3年)3月19日、後の近衛兵の前身となる親兵が設置されます。

幕末の勤王党が天下の兵権を朝廷に囘し奉ろうとした第一着手の運動として、先づ京都に親兵を設けようとしたのは1863年(文久3年)の春に始まります。長州土佐の両藩が最も熱心にこれを説きます。

そこで朝廷でも在京諸藩の有力者と寄り寄り協議されるようになったので、江戸幕府では慌て出して、何かと反対運動を行います。

けれども兵権の回復こそ王政復古の第一歩であるという長州土佐の主張は日に日に熱を加え、2月28日には親兵貢献の願書を朝廷に捧呈するに至ります。

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高杉晋作、丁髷を落として名を「東行」と改める

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高杉晋作

幕末の長州藩にその人ありと知られた高杉晋作が、頭を丸めて名も東行と改めたのが、1863年(文久3年)3月15日の事でした。

晋作は藩中でも小壮派の大立物、殊に大義名分を振り翳して一歩も退かぬ勤王党の闘士でした。その言行が余りに過激過ぎるというので藩主から10年間のお暇が出てしまいます。

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勝海舟、坂本龍馬のために帰藩運動

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坂本龍馬
坂本龍馬

土佐藩の傑物坂本龍馬が、勤王討幕の大望のため、同士と気脈を通じて脱藩を企てたのが、1862年(文久2年)の3月末の事でした。

勝海舟
勝海舟

勝海舟の門に入って航海の法や海戦の術を学んだのでしたが、龍馬の海舟を得たのは、あたかも龍の雲を得たようなもので、彼は漸く多年の宿望を達し得たのを非常に喜んだのでした。

幕府を倒そうという勤王家の龍馬が、幕府直属の軍艦奉行勝海舟の門に入って喜んだというのも、甚だ矛盾のようではありますが、海舟には時流を超越した政見がありました。即ち彼は幕府の大政奉還論者であり、同時に開国論者でありました。だから龍馬も心から海舟に敬服していたわけであります。

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薩摩船撃沈事件

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1863年(文久3年)12月24日の事でした。馬関海峡(現在の関門海峡)の前田砲台では、長州藩の砲台兵が、黄昏の薄暗い海上に、外国船らしい船影を発見して、

「そら異人船だ、逃がすな撃てッ!」

と火蓋を切って放ったのでした。

予ねての攘夷令だから一同の意気高揚していました。

船はどんどん逃げる、やっぱり異国船だ、撃て、撃てと言って盛んに撃ちかけたので、遂に船は焼けて沈没してしまいました。

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