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1864年(元治元年) Archive

井上聞多と伊藤俊輔、俄かの帰朝

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伊藤俊輔と井上聞多
伊藤俊輔(左)と井上聞多(右)

井上聞多(後の井上馨侯爵)と伊藤俊輔(伊藤博文公爵)とが、馬関戦争の報に驚き、遊学中のロンドンから、急いで帰朝したのが1864年(元治元年)6月10日の事でした。

その前年の5月12日、海外の文化に憧れた両人は、手に手を取って外国船に乗込み、ヨーロッパ遊学の密航を企て、先ず英京ロンドンに上陸して、当時日本とは格段の先進国あった彼の地の新文化に驚異の眼を瞠り、政治に学術に風俗に、あらゆる点に於て大いに学ぶ処があり、翻って立後れた祖国の文化を歎き、鎖国主義の幣をつくづくと感じたのでした。

滞留一年も充たぬうちに、たまたま故国の長州が、攘夷主義を実行に移し、外国船と放火を交えて戦闘していると伝え聞き、両人共事の意外に駭然としたのでした。

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池田屋騒動

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近藤勇

1864年(元治元年)6月5日、京都で池田屋騒動の事件が起りました。

京都四条の小橋に筑前藩の御用を勤める柳家喜右衛門という者が住んでいて、町人にも似合わず沢山の武器を秘蔵しているのが怪しい、と嗅ぎつけた新撰組の近藤勇が、6月5日の早暁、その寝込みを襲って引捕へ、幾重に取調べてみると、前年8月18日の政変で、京都の地から追放同様となった長州藩の不平党が中川宮及び会津容保への復讐として、更に政変を一変させようという密謀がすっかり暴露されました。

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西郷隆盛の流罪赦免

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西郷隆盛

西郷吉之助(後の西郷隆盛)が奄美大島の流罪も解けて、めでたく赦免状に接したのが1864年(元治元年)2月22日の事でした。

西郷が、勤王党の急先鋒となって、盛んに暗躍を続けていた為、幕府に逐われて薩摩に帰りますが、島津藩主も江戸幕府の手前、その前年の6月、奄美大島群島中の沖水良群島に流罪を申渡したのであって、西郷にとって二度目の流罪でありました。

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天狗党の乱(筑波山事件)の終結

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1864年(元治元年)12月17日、水戸藩が尊王攘夷党の天狗党の乱(筑波山事件)も、進退遂に窮まり加賀藩の軍門に降ります。

事の始まりは1864年(元治元年)3月の末、勤王憂国の志士で水戸の藩士藤田小四郎が、同藩の田丸稲之衛門を説いて主将と仰ぎ、同志を集めて筑波山に立て籠もり、敢然として義旗を翻したのも、攘夷実行の朝廷に相応じ、これに反対の幕府を責めるためで、「一死以て叡慮の万一に報い奉るを得ば、我軍足れり」とする赤誠純情の青年党で、同志70人余が糾合します。

同志とは同じ水戸藩の文武館、小川館、潮来館に学んだ子弟で、何れも憂国熱血の少壮気鋭で、四方に激を飛ばして同志を告げるやら、また建白書を幕府の老中に呈して、尊王攘夷を速やかにせよと難詰するやら、一党の気鋭当るべからざるものがありました。

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長州藩三家老の切腹

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徳川慶勝
尾張国名古屋藩主徳川慶勝

長州藩の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老を始め、宍戸左馬介、中村九郎、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛などの四参謀が、藩の政策の犠牲となって切腹を命じられたのが、1864年(元治元年)11月12日の事でした。

上述の主謀者が尊皇攘夷の旗印も、蛤御門の衝突以来、禁門を騒乱の巷と化せしめた罪を問われ、朝廷と幕府の両面から責められて、長州一藩が孤立となり、全国30数藩の兵は尾張の徳川慶勝を総督として、長州征伐の軍令が発せられたのでした。

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