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1868年(明治元年) Archive

土下座の制を廃止する

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明治の維新となって各般の制度が一変された中に、公卿貴族大名などの行列のお先払い、並びに土下座の制を廃止せよと、太政官令も以て布告されたのが、1868年(慶応4年)閏4月22日の事でした。

それまでの貴族の行列には、物々しい行列にお先払いが真先に進んで、沿道の民に対しまるで蝿を逐うように「おお」とか「しい」とか声をかけ、もし少しでも無礼の者があると、「頭が高い」「控えろ」と叱責され、あるいは処分されました。

こうした極端な差別的取扱いも、この日の布令に依れば、「官は大臣たりとも渇道並びに殿上の前導示渇を廃すべし」とあって、土下座もお先払いも旧弊の後を絶ったのでした。

河井継之助、戦死

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河井継之助
河井継之助

1868年(慶應4年)8月16日、河井継之助は、官軍との長岡城攻防戦で負傷し会津へ逃れる途中で戦死しました。享年42歳。

長岡藩士河井継之助、名は秋義、蒼龍窟と号します。少にして佐久間象山の門に入り、長じて大槻盤渓・斉藤拙堂・古賀謹堂等に学びます。また、長崎に赴き、蘭人に交りて、つとに開港論を唱えます。

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相馬藩家老脇本喜兵衛の壮烈な最期

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相馬藩の家老脇本喜兵衛が、戊辰戦争で天晴れな最期を遂げたのが、1868年(慶應4年)8月1日の事でした。

今の福島県双葉郡浪江町付近で、奥羽征討軍と相馬藩兵との一戦は、衆寡敵せず藩兵の総崩れとなったが、殿軍を引受けて頑強に抗戦した勇猛な一隊があったが、いつの間にか包囲隊に囲まれて虜となってしまいます。

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福沢諭吉、戦火でも講義

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福沢諭吉
福沢諭吉

1868年(慶應4年)5月15日、折から啾々たる五月雨をついて、幕府の残党彰義隊が、官軍に抗して上野に砲火を交え、江戸の全町を震駭させる激戦となりましたが、彰義隊討伐の砲火は、いよいよ江戸の天地を動かし、市民の総ては全く生きた心地がありませんでした。

下谷方面の町民はもちろん、本郷、根津、日本橋方面の人々まで、我先にと家財道具を背負って、安全な町外れに避難するという状態でありました。

ところでこの日は、三田の新銭座の慶応義塾で、福沢諭吉のウェーランド著『経済書』の講義が開かれていました。

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近藤勇の最後

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近藤勇

1868年(慶應4年)4月25日、新撰組局長近藤勇が斬首されます。
享年35歳でした。

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小栗上野介忠順、斬首

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小栗上野介忠順

幕末の英傑小栗上野介忠順(ただまさ)は、1860年(万延元年)新見正興一行の遣米使節に随行して大役を果たし、帰朝後は目付役の勤務に精励、酒色を避けて上官に諂わず、1864年(元治元年)勘定奉行を兼ねて陸海軍奉行の重職に登用された程の逸材であります。

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明治天皇、親征の為車駕京都を発す

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「五箇条の御誓文」を発して後7日の、1868年(慶應4年)3月21日、明治天皇は東北親征の為京都を発して大阪に向うことになります。

相随う者は、副総裁三条実美、輔弼中山忠能、議定細川護久、浅野長勲など。

23日に大阪に到着、本願寺を以て臨時行在所と定めます。

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大山弥助(後の大山巌元帥)の大英断

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大山弥助
大山弥助(後の大山巌元帥)

時は1868年(慶應4年・明治元年)1月27日、厳然たる禁令を破って京都の地に西洋人を迎え入れたというエピソードがあります。

あたかも当時は鳥羽伏見の戦いの直後で、京都の相国寺内の薩摩病院には、官軍の傷病兵が多数収容されていました。これを治療する医者も多数集まってはいましたが、鉄砲傷や刀傷の重傷者が多くて、とても漢方医などの手には負えず、名誉の負傷者も段々悪化するばかりか、助かる者も助からないという状態でありました。

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東郷平八郎、海軍生活の第一歩を踏み出す

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春日士官
「春日」士官(前列中央が「春日」艦長赤塚源六、後列右が東郷平八郎


鳥羽・伏見の戦1868年(慶應4年)の正月3日であった事は一般によく知られていますが、当時の海戦(阿波沖海戦)についてはあまりよく知られていません。

あたかもこの日は、後の東郷平八郎元帥が、22歳で軍艦に乗組み、海軍生活の第一歩を踏み出した日に当ります。

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沼津兵学校の開設

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沼津兵学校記念碑
沼津兵学校記念碑

日本最初の洋式学校たる沼津兵学校及び附属小学校が開設され授業開始に当り、即ち校則を発表したのが1868年(明治元年)12月20日の事でした。

1867年(慶応3年)の末、大政を奉還した前将軍徳川慶喜は、駿河、遠江、三河の三国70万石の領主として駿河に移されたので、幕府の恩顧を慕う一族もこの三国に落ちて行きました。

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会津攻城戦、女丈夫の奮戦

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1868年(慶應4年)8月23日の白虎隊全滅に続く8月25日、同じ会津若松城の城下で、花も恥らう乙女の身で、敵の大軍と抗戦し、遂にこれに殉じた美談があります。

奥羽征討軍のため包囲され、よく奮戦力闘した会津軍勢の中には、少年隊あり壮年隊あり、老人組共に藩主のため忠節を尽くして、会津武士の面目を施しました。

中にも藩士中野平内の娘で、20歳の竹子は、妹のいろ子及び神保雪子らと共に戦に参加しました。

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白虎隊、飯盛山に散る

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白虎隊自刃の図

会津の少年義勇隊「白虎隊」が、飯盛山に悲壮な最後を遂げたのが、1868年(慶應4年)8月23日の事でした。

会津藩では幕末の風雲急と見て、藩士中の50歳以上を玄武隊、36歳以上を青龍隊と、18以上を朱雀隊、そして16・7歳の最少年組を白虎隊と名付けて4隊に編成しました。

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大阪が開港

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1868年(慶応4年)7月15日、大阪の開市場を改めて開港場と定めます。

安政五カ国条約の「開市」の約束から10年、明治新政府は「開港」でこたえます。安治川の川口に運上所(税関)を設け、責任者に外国判事・五代友厚が赴任します。五代は急ピッチで波止場を建設、港は水深を深くするために掘削し、さらに居留地を整えて、競売も行いました。

大阪では、この記念の日を取り、毎年この日に港まつりを開催しています。

彰義隊、官軍に破れる

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彰義隊の碑

1868年(慶應4年)5月15日、折から啾々たる五月雨をついて、幕府の残党彰義隊が、官軍に抗して上野に砲火を交え、江戸の全町を震駭させる激戦となりましたが、わずか半日で彰義隊の敗滅となりました。

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最初のハワイ移民「元年者」

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日本人最初のハワイ移民が横浜を出帆したのが、1868年(慶應4年、明治元年)4月24日でした。

ハワイへの最初の移民だったばかりでなく、実にこれが日本人最初の海外移民団でもありました。

ハワイの名誉領事ウエンリードより同地の農耕開発に従事する移民を募集され、その世話方を一手に引き受けて起ったのが、横浜の大親分木村半兵衛でありました。

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前将軍徳川慶喜、水戸へ退去

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1868年(慶應4年)4月11日という日は、江戸に三つの大きな事件がありました。

 一つは、江戸城が完全に明渡されたこと

 一つは、榎本武揚大鳥圭介らの幕臣が海陸両軍を率いて江戸を脱走

 今一つは、前将軍徳川慶喜が水戸へ都落ちしたこと

でした。

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大久保利通、無上の光栄に感涙す

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大久保一蔵(後の利通)
大久保一蔵(後の利通)

1868年(慶應4年)4月9日、不屈の傑人・大久保利通が、初めて明治天皇に拝謁し、無上の光栄に浴して感涙に咽んだという逸話があります。

薩摩の一藩士大久保一蔵(後の利通)は、明治維新の大業に東奔西走し、やがて王政復古の新朝廷に参与職として召出され、小御所奉仕の栄職に昇進します。

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江戸開城の勅使参向

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勝海舟と西郷隆盛

1868年(慶應4年)4月4日、勅使橋本実梁卿、副使柳原前光卿は、総督参謀西郷隆盛、林玖十郎等を従えて、池上本門寺の陣営から江戸城へ乗込み、正式に江戸開城の御沙汰を伝達しました。

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ストーンウォール号(甲鉄艦)、横浜に入港

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甲鉄艦

1868年(慶應4年)4月2日、徳川幕府がアメリカに注文していた鉄張りの軍艦ストーンウォール号が、横浜に入港しました。

しかし、時はあたかも官軍が江戸城に迫り、幕軍の彰義隊と激戦している戊辰戦争真っ只中であり、また明治新政府の要請により、英・米・仏・蘭・伊・プロイセンの六カ国は、同年2月18日に局外中立を宣言していたため、アメリカ公使はこれを理由にストーンウォール号を抑留します。

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日本最初の観艦式

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大阪行幸諸藩軍艦御覧
聖徳記念絵画館 壁画「大阪行幸諸藩軍艦御覧」
岡田三郎助 筆
侯爵 鍋島直映 奉納
1868年(明治元年)3月26日
大阪天保山沖

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生誕140周年「秋山真之と広瀬武夫」

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生誕140周年「秋山真之と広瀬武夫」 ~天の道、剣の道~
生誕140周年「秋山真之と広瀬武夫」 ~天の道、剣の道~

1868年(慶應4年)3月20日、秋山真之が誕生しました。
そして、2008年の本日20日で誕生からちょうど140年を迎えました。

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明治新政府の基本方針、「五箇条の御誓文」

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五箇條御誓文
聖徳記念絵画館 壁画「五箇條御誓文」
乾南陽 筆
侯爵 山内豊影 奉納
1868年(明治元年)3月14日
京都御所紫辰殿

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西郷隆盛、勝海舟の両雄、江戸の薩摩屋敷で会見(江戸開城談判)

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江戸開城談判
聖徳記念絵画館 壁画「江戸開城談判」
結城素明 筆
侯爵 西郷吉之助 奉納
伯爵 勝精 奉納
1868年(明治元年)3月14日
東京芝田町薩摩藩邸

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山岡鉄舟、駿府城に乗り込み西郷隆盛と会見する

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山岡鉄舟

1868年(慶應4年)3月9日、西郷吉之助(西郷隆盛)が駿府に江戸城討入の本陣を置いて、しきりに術策を廻らしていた所へ、江戸の使者として訪ねて来たのが、幕府麾下にその人ありと知られた山岡鉄舟でした。

山岡鉄舟は幕臣としての地位はさほど高くはありませんでしたが、頗る理事に通じ、国家を思う赤誠に富み、剣の道にかけても稀に見る達人でした。

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土佐藩兵とフランス水兵の衝突事件(堺事件)

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1868年(慶応4年)2月15日、堺事件という国際紛争事件が起りました。

事の起りはフランスの領事一行が大阪から陸路堺に入ろうとしたが、堺の警備の任に当たっていた土佐藩の兵は、外国事務局から何らの通報を受けていなかったので、通す事罷りならぬと、中途から引き返させてしまいました。

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江戸幕府の始まりと終焉は奇しくも同じ日だった

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徳川慶喜
15代将軍徳川慶喜

1603年(慶長8年)2月12日、徳川家康は征夷大将軍となり、名実ともに武家の棟梁となったことで、統治権を掌握し江戸に正式に幕府を開きました。それからちょうど265年後の1868年(慶応4年)2月12日、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、海路江戸に逃げ帰って来た第15代将軍徳川慶喜は、朝廷に恭順の意を表すために、江戸城を出て上野の寛永寺に隠退し謹慎の意を表します。

ここに江戸幕府は終焉を迎えます。

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江戸を東京と改称し都を遷すの詔

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1868年(明治元年)7月17日、明治天皇は江戸を東京する詔書を出します。

江戸を東京と改稱し都を遷すの詔

朕今萬機を親裁シ億兆を綏撫す江戸は東國第一の大鎭四方輻輳の地宜しく親臨以て其政を視るへし因て自今江戸ヲ稱して東京とせん是 朕の海内一家東西同視する所以なり衆庶此意を體せよ

1868(慶応4年)5月の上野戦争が終わって間もなく明治と改元し、引続き江戸を東京と改称し、この時を以て天皇を東京へ遷座となったのでした。

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秋山好古があこがれた「慶應義塾」

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1868年(慶応4年)4月3日、福沢諭吉は運営する英学塾を芝新銭座に移し、慶應義塾と改称しました。

好古の福沢ずきは、かれが齢をとるにつれていよいよつよなくり、その晩年、自分の子は慶応に入れたし、親類の子もできるだけ慶応に入れようとした。そのくせ生涯福沢に会ったことがなかった。好古はおそらく、富裕な家にうまれていれば自分自身も福沢の塾に入りたかったであろう。
坂の上の雲』(騎兵)より

慶応義塾は、福沢諭吉1858年(安政5年)江戸鉄砲洲の中津藩奥平家中屋敷に開いた蘭学塾で、文久年間(1861年~64年)から英学に転じ原書読解を行いました。1868年(慶応4年)芝新銭座に移り、慶應義塾と改称し、1871年(明治4年)から三田に移転します。

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秋山真之生誕祭

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1868年(慶応4年、明治元年)3月20日は、秋山真之生誕の日です。

松山市では3月20日に「秋山兄弟生誕地」において、「秋山真之生誕祭」を催しているようです。昨年の愛媛新聞の記事によりますと、

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徳川慶喜親征の詔

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二條城太政官代行幸
聖徳記念絵画館 壁画「二條城太政官代行幸」
小堀鞆音  筆
三井八郎右衛門 奉納
明治元年年2月3日
京都二條城東大寺門

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明治最初の外交問題、神戸事件

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神戸事件

1868年(明治元年)1月11日、開港地神戸で岡山藩兵と外国兵との衝突事件がおこりました。

三宮神社前を西宮警備に向かう家老日置(ひき)帯刀以下の岡山藩兵の隊列をフランス水兵が横切ります。この制止を発端に、藩兵の威嚇発砲に英・仏・米陸戦隊が応戦し、列国の神戸一時占領という事態を招きました。

新政府は事件4日後に、外国使臣に王政復古を告げ、開国和親を布告します。
外国側は陳謝と責任者極刑を要求したため、政府は日置を謹慎、隊長滝善三郎を切腹させることにより事件の解決を図りました。

河井継之助と山本五十六

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河井継之助
河井継之助

今、司馬遼太郎氏の『峠』を読んでいます。

1868年(慶応4年)、新政府征討軍に対し、「奥羽越列藩同盟」を結成した河井継之助は領民の安寧と平和的解決のために局外中立構想をうちたてます。しかし、この嘆願は征討軍の軍監岩村高俊に一蹴され、継之助の構想は挫折することになります。

而して、継之助は薩長への怒りと武人としての誇りをかけて戦いを決意します。しかし圧倒的な数を有する新政府軍との戦争の結果、長岡藩は三分の二におよぶ戦傷者と、城下が灰塵に帰すという悲惨な結果をもたらします。

果たして河井継之助が英雄なのか、それとも直情暴走者なのか賛否のわかれるところになります。

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明治天皇、「東京」に到着

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東京御著輦
聖徳記念絵画館 壁画「東京御著輦」
小堀鞆音 筆
東京市 奉納
明治元年10月13日
西丸正門(二重橋)に入る御行列

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当たりますように...

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本日はサマージャンボ宝くじの発売最終日、時間ギリギリの駆け込みでなんとか購入することができました。

ということで、本日は宝くじに関するお話です。

日本の宝くじは中世末にはじまり、記号・番号による抽選方式や詞章による入札方式などの方法でおこなわれました。賞金は売上額の一部を還元し、札元は損失をうけませんでした。そのため各地で富くじが開催され江戸末期まで盛行しますが、1842年(天保13年)の水野忠邦の「天保の改革」によって禁止となります。

それは明治という新しい時代にになっても、1868年(明治元年)の「太政官布告」によって禁じられます。

宝くじが再び発行されるのは1945年(昭和20年)の戦時中であり、それは軍事費を徴収するための目的で行われたといいます。

嗚呼、宝くじが当たれば...

古書を片っ端から買いあさって、そしてカメラも一眼レフに買い換えて、それをもって全国の『坂の上の雲』に関わる土地をのんびりと旅してみたいです。

でも私、未だに3,000円以上、当たったためしがございません。

日本のホテルの始、築地ホテル館

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築地ホテル館江戸開市にそなえ、イギリス公使パークスの要請により築地船板町の軍艦操練所の跡地に建設された外国人用旅館「築地ホテル館」。

横浜在住のアメリカ人建築家R・P・ブリジェンスが設計し、日本人棟梁建築家の二代目清水喜助が完成させる。開市に先立つ1868年(明治元年)8月からの開業とされる。

望楼付木造二階建、ベランダ付海鼠(なまこ)壁の和洋折衷建築として、築地居留地に異彩を放ち名所の一つであったが、72年(明治5年)2月26日の銀座大火で焼失する。

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