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1892年(明治25年) Archive

品川弥二郎内務大臣辞職(選挙大干渉の結末)

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品川弥二郎

明治25年3月11日、品川弥二郎が選挙干渉責任問題で内務大臣を辞職します。

事の経緯は、明治24年11月20日に召集された第二議会に於いて、衆議院は政府の提出した予算案中海軍拡張費を削り、また承諾案たる濃尾震災救済費責任支出に就て、即決承認をを与えなかった為に、政府は即日12月25日に衆議院を解散し、次いで翌年2月15日を以て総選挙を行う旨の詔勅が下りました。

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選挙大干渉

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坂本牙城画「選挙干渉」

1892年(明治25年)2月15日、松方正義内閣の下に衆議院議員の臨時総選挙(第2回総選挙)が行われました。

時の内相品川弥二郎 は同次官白根専一と共に大選挙干渉を行います。

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正岡子規、新聞「日本」に入社

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1892年(明治25年)12月1日、正岡子規は新聞「日本」に入社します。

坂の上の雲〈2〉子規はいったん東京にもどり、この年の十一月九日母と妹をむかえるべく東京を発ち、神戸までゆき、ここで落ちあって十七日帰郷した。
翌日、羯南がやってきて、
「あなたの入社が決定しましたよ」
と、吉報をもたらした。羯南が社長になっている新聞「日本」に入社するという件である。

坂の上の雲』(日清戦争)より

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「もののふの河豚にくはるる悲しさよ」、千島艦事件

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1892年(明治25年)11月30日、フランスで建造回航中の水雷砲艦「千島艦」(750トン)が、瀬戸内海愛媛県沖で、イギリスP・O会社汽船ラヴェンナ号と衝突沈没する事件が起こりました。

千島艦慰霊碑政府は天皇の名で、横浜イギリス領事館に賠償を求める提訴をしました。一方P・O会社も、衝突の原因は千島艦にあると反訴し、問題は容易には解決しません。事件を知って世論はわきかえります。

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伊藤博文、交通事故に遭遇

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1892年(明治25年)11月27日、伊藤博文首相の乗った人力車が馬車と衝突しました。

伊藤首相は、芝に住む実父を訪ねる予定で、人力車で邸を出たところを、小松宮妃の乗る馬車と衝突。伊藤首相の乗る人力車は横転し、首相はそのまま気を失ってしまいます。

知らせを聞いた明治天皇は侍医を伊等邸に派遣するなど、一時は騒然としましたが、幸い伊等首相も小松宮妃もけがは大したことはなかったようです。

弱きを助け強気をくじく新聞、「万朝報」創刊

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明治30年代、日本とロシアの緊張が高まる中、アジアの国際情勢と日本の運命について当時の新聞各社は見出しを飾りはじめます。

坂の上の雲〈2〉「露国の大兵、東亜に向ふ」
明治三十四年一月十一日の時事新報。ロシア陸軍四万がオデッサから海路極東にむかったという(中略)
「まさに来らんとする一大危機・露国の満州占領は東亜の和平を攪乱す」
右は一月二十二日の万朝報の社説

坂の上の雲』(列強)より

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正岡子規、帝国大学退学の真相?

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正岡子規1892年(明治25年)に帝国大学を突如退学します。

もっとも、子規もよくなかった。二十五年の初夏に、二年目の落第をしてしまっている。(中略)
子規は、退学を決意した。郷里の母親や叔父などはそのまま学業をつづけてとにかくも文学士になってくれることを切望したが、子規の決意はかたかった。

坂の上の雲』(日清戦争)より

このときの落第の言い分を当の本人はこう語っています。

大学ほど実に下らない所はない。まァ聞きたまへ。英文学の試験に何をやるかと思うと、詩を二行ばかり出して、その解釈をさせるならまだしもだが、これは誰の作の何と題する詩にあるかというんだ。毛唐の奴、どこまで、人を子供扱いにするか分らない。僕は癪に障ったから、答案を出さないで、ドンドンと教室を出てしまった。それなり学校はよしさ。

英語が苦手だった子規のいかにも負けず嫌いな言い分です。
すでに俳句に夢中になっていた子規には、どこか踏ん切りが必要だったのでしょう。もし子規が英語が得意だったら、俳聖・正岡子規はこの世に誕生しなかったということになります。

正岡子規の俳句革新

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俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。それに反して子規においては全く魂を打込んでの第一義の仕事とし、俳句に芸術としての新しい息吹を吹き込もうとする文学運動であった。故に子規を待って初めて真の革新的意義が認められる。

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