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1894年(明治27年) Archive

日清戦争「黄海海戦」

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日清役黄海海戦
聖徳記念絵画館 壁画「日清役黄海海戦
太田喜二郎 筆
大阪商船株式会社 奉納
1894年(明治27年)9月17日
黄海

1894年(明治27年)9月17日、日本連合艦隊は黄海において清国北洋艦隊と海戦、これを撃破します。

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日清戦争「平壌の戦」

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日清役平壤戦
聖徳記念絵画館 壁画「日清役平壤戦」
金山平三 筆
神戸市 奉納
1894年(明治27年)9月15日
平壌

1894年(明治27年)9月15日、日本軍は清国軍と平壌にて戦闘を交えます。対清宣戦の大詔渙発以来、初の大戦にして、日清戦争に於ける最大の会戦となりました。

図は平壌戦中、陸軍少将大島義昌の混成第九師団奮闘の光景であり、馬上の人物は参謀長岡外史が描かれています。

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豊島沖の海戦

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ショバイオール沖の戦
小林克己画「ショバイオール沖の戦」

1894年(明治27年)7月25日、仁川南西方の豊島沖で日本海軍は清国艦隊を砲撃しましす。

坪井少将の率いる吉野、浪速、秋津の三艦、朝鮮沿海の居ると清国「済遠」「広乙」と行違いに支那側発砲した。此の時浪速の艦長が東郷平八郎、第一発は東郷さんの艦から発射、一つは沈没一つは火災おまけに、高陞号まで分捕った。李鴻章此の報を聞いて「日本は海賊の様だ」と列国に吹聴した。宣戦布告をまだしなかったから。
「漫画明治大正史」より

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明治天皇、大婚二十五年祝典

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taikon.jpg
聖徳記念絵画館 壁画「大婚二十五年祝典」
長谷川昇 筆
華族会館 奉納
1894年(明治27年)3月9日
宮城正殿

1894年(明治27年)3月9日、明治天皇「大婚二十五年祝典」が催されました。
すなわち、日本で始めて銀婚式を挙げたのは明治天皇になります。

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大本営を広島に遷す(日清戦争)

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廣島大本営軍務親裁
聖徳記念絵画館 壁画「廣島大本営軍務親裁」
廣島大本営軍務親裁
南薫造 筆
1894年(明治27年)9月
広島大本営

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北里柴三郎と緒方正規

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北里柴三郎と緒方正規

日本細菌学の一大恩人北里柴三郎博士が、ペスト病原菌発見に成功して、めでたく香港より帰朝したのが、1894年(明治27年)7月30日の事でした。

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川上操六と近藤廉平の密約

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川上操六
川上操六

1894年(明治27年)6月4日、後の男爵近藤廉平が川上操六将軍と軍事上の機密を守って固い約束をしたという逸話があります。

日清の国交漸く風雲急を告げ、朝鮮の警備の急務を感じた参謀本部では、時の参謀次長川上操六中将が、御用船の事に就いて密かに日本郵船会社副社長近藤廉平を訪ねます。

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「デパートのパイオニア」と呼ばれた男、三越の日比翁助

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「デパートのパイオニア」と言われた日比翁助が三越支配人となったのは1894年(明治27年)末でした。日比は慶応大学卒で、三井の大番頭となる池田也彬とは旧友で、三井銀行を経て1898年(明治31年)、41歳で三越に入りしました。

彼は池田也彬の協力を得て、三井銀行から資金を出してもらい、ハイカラな洋式建築、様式売場へのプロジェクトを推進します。さらには、三越の美人画ポスターをいっそう派手なものしました。

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日本、清国に宣戦布告(明治27年)

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1894年(明治27年)8月1日、日本国は「清国に対する宣戦の詔勅」を公布し、宣戦が布告されます。

日清両国は甲午農民戦争の鎮圧を名目として6月に朝鮮に出兵し対峙を続けていましたが、日本は7月16日に日英通商航海条約に調印するや、7月23日、日本軍はソウルの朝鮮王宮を占領し、7月25日には牙山湾の豊島沖で清国軍艦を砲撃し、陸上でも成歓で29日に戦端が開かれれていたのでした。

さて、ここで日清戦争の開戦日をめぐる問題が政府内部で起こります。

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木口小平、「死ンデモラッパヲハナシマセンデシタ」

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1894年(明治27年)7月29日、朝鮮京畿道成歓において日清両軍の最初の本格的陸戦が開始しました。

日清戦争の宣戦布告は八月一日におこなわれるが、事前の衝突というかたちで在朝鮮の大島旅団が七月二十九日、成歓で清国軍をやぶった。

坂の上の雲』(日清戦争)より

甲午農民戦争鎮圧のため朝鮮の牙山に上陸した清国軍を撃つため、日本軍は日清宣戦とともに牙山に向かい成歓で両軍が衝突します。この時、安城渡の戦で、歩兵21連隊(大島混成旅団)第3大隊第12中隊の喇叭(ラッパ)手・木口小平が喇叭を吹きつつ戦死します。

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日清戦争開戦と高陞号事件

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1894年(明治27年)7月25日、日清戦争開戦時に東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する事件が起こりました。(高陞号事件

午前十時、済遠をさがしていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船であった。
マストに英国旗をかかげているが、眼鏡でとらえたところでは清国陸軍の将兵を満載していることがわかった。
「ただちにとまれ。ただちに投錨せよ」
と、浪速は信号をあげた。
浪速からボートが出、士官が派遣された。その報告によると、この英国汽船「高陞号」は清国が陸兵輸送のためロンドンのジャーデン・マジソン・コンパニーからやとい入れたもので、現在、陸兵千百人、大砲十四門とつみ、牙山に上陸させようとしているという。
浪速の艦長は、大佐東郷平八郎であった。
かれは英国船長に対し、
「その船をすてよ」
と信号で命じた。
ところが、高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険をしらせる赤旗をかかげ、そのあと、撃沈の命令をくだした。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。
高陞号はしずんだ。
坂の上の雲』(日清戦争)より

撃沈した高陞号の乗船者のなかで、浪速が救助したのは、ガルスウォルスィー船長とルィース・ヘンリー・タンプリン一等機関士にルーカス・エヴァングリスター按針手の三名だけであった。

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日清戦争、戦没者第一号

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1894年(明治27年)7月16日、陸軍省日清戦争で初の戦死者が出たと発表しました。

朝鮮の仁川から広島の宇品へ送還される船中で亡くなった野間田若松一等兵で、公示された戦死者の第一号とされます。なお、海軍初の戦死者は、同年9月17日、黄海海戦で敵弾を頭部に受けて死んだ赤城艦長坂本八郎太とのことです。

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子規の詩文の先生、河東静渓

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1894年(明治27年)4月24日、河東静渓が逝きました。享年65歳。

二年生の秋の大試験で子規は学業優等になり、そのほうびとして学校から数人の者が頼山陽の「謝選捨遺」という書物をもらった。ところが少年の学力ではそれがむずがしく読めなかったため、
「河東静渓先生の弟子になろう」
と申し合わせて入門した。
坂の上の雲』(真之)より

河東静渓は竹村黄塔、河東銓、河東碧梧桐の父であり、旧松山藩の漢学者でした。子規は友人らとともに千舟学舎の河東静渓から八大家文などの講義を聴き、詩の添削を求め、多大な感化をうけました。

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旅順陥落(日清戦争)

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1894年(明治27年)11月21日、大山巌大将率いる第二軍は旅順攻撃を開始します。

第二軍の旅順攻撃は、大山巌が決定した予定どおり、二十一日の払暁、寒気をついて開始され、主力諸隊が前進した。この間秋山支隊は主力の右側の援護に任じ、椅子山の西方に位置し、一方、鳩湾まで進入してきた艦艇と連絡しつつ、優勢な敵を釘づけにした。
「半年はかかる」
といわれた旅順要塞は、おどろくべきことにまる一日で陥ちてしまった。
坂の上の雲』(日清戦争)より

日清戦争における旅順要塞は重要拠点でした。

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