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1895年(明治28年) Archive

下関条約(日清講和条約)批准書を交換

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伊東巳代治全権大使の一行
伊東巳代治全権大使の一行
 *写真中央で椅子に腰を掛けているの伊東巳代治

馬関(下関)春帆楼の於ける日清講和条約は、1895年(明治28年)4月17日を以て調印し、20日明治天皇の批准を得、翌日平和克復の大詔煥発し、超えて5月8日、両国の条約批准書は清国芝罘(チーフー)に於て交換されました。

批准とは、全権委員が署名調印した条約を、締結国の元首その他国内法上定められた者が確認をする手続きであり、批准により当該条約に拘束されることへの同意を最終的に示すことを意味します。

依って日本は先に調印された講和条約に関して、三国(フランス、ドイツ、ロシア)干渉に依り条約破棄されることを恐れ、先づは既得権を確保することが先決とし、この批准書の交換を最優先課題とします。

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昭憲皇太后、広島予備病院行啓

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広島予備病院行啓
聖徳記念絵画館 壁画「広島予備病院行啓」
石井柏亭 筆
日本学舎・日本帥会 奉納
1895年(明治28年)3月22日
広島陸軍予備病院

1895年(明治28年)3月22日、昭憲皇太后は広島陸軍予備病院本院を行啓、病室に臨みて親しく患者を慰問します。

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清国講和全権李鴻章来る

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引接寺
宮尾しげお画「引接寺」

1895年(明治28年)3月19日、清国講和全権李鴻章日清戦争の講和談判の為に日本にやって来ました。

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李鴻章、傷癒え再び談判開始

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李鴻章
李鴻章

1895年(明治28年)3月24日、清国講和全権李鴻章が、凶漢小山豊太郎のために狙撃されたのを、明治天皇には深く哀れみ、清国に対し3月30日より4月10日までの向こう3週間、無条件にて休戦を認めます。

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李鴻章狙撃事件と軍医佐藤進の功績

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佐藤進
佐藤進

1895年(明治28年)3月24日、日本にとって誠に忌まわしい不祥事が起りました。

この日午後4時、下関に滞在中の清国の講和全権大使李鴻章は、最終日の講和談判を終えて、春帆楼から旅館の引接寺へ帰る途中、外濱町に掛かろうとする折しも、小山豊太郎という一凶漢のため左眼下を狙撃されます。

気丈な李は傷口を抑えて宿所へ引揚げますが、この椿事に、談判出席の諸大官何れも上を下へとうろたえ、即夜東京大学医学部教授佐藤進博士に出張治療の大命を下します。

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正岡子規、神戸病院を退院して須磨保養院へ

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須磨保養院
「須磨海浜保養院」

1895年(明治28年)7月23日、正岡子規は神戸病院を退院して須磨保養院に移りました。

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日本最初の近代的植民地支配、台湾鎮定

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台湾鎮定
聖徳記念絵画館 壁画「台湾鎮定」
石川寅治  筆
台湾総督府 奉納
明治28年6月11日
台北城北門

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下関条約調印、その賠償金の使いぷりは?

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下関講和談判
聖徳記念絵画館 壁画「下関講和談判」
永地秀太  筆
下関市 奉納
明治28年4月17日
下関春帆楼

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子規待ちくたびれて、へらへらへ、はらはらは

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1895年(明治28年)4月10日、正岡子規日清戦争従軍記者として御用船海城丸で宇品を出港します。

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日清休戦条約調印(日清戦争終結)

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1895年(明治28年)3月30日、日清休戦条約が調印されます。この調印により日清戦争は事実上終結したことになりました。

同年3月24日、休戦を行わず日清戦争の講和会議締結を有利に進めていた日本政府は、奇しくも清国の講和全権大臣李鴻章が、暴漢の小山豊太郎に狙撃されるという事件が起こりました。

この事件により、欧米の感情がきわめて悪いと報告を受けた陸奥宗光は、列国の対日批判を和らげ、講和会議の早期再開と会議の主導権を掌握するために、3月28日に李鴻章の病床に赴き、無条件休戦を受諾する旨を陳述し、ついで、春帆楼で李経方と会合し、全六条の休戦約提案を交付します。

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李鴻章、暴漢に狙撃さる

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1895年(明治28年)3月24日、清の講和全権大臣李鴻章が、暴漢の小山豊太郎に狙撃される事件が起こりました。

子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。(中略)
すでに戦いはなく、いわば新戦場の見学旅行のようなかたちになった。かれが日本を出発したときにはすでに下関に李鴻章がきており、講和談判がはじまっていた。
坂の上の雲』(須磨の灯)より

3月20日、下関で第一回日清講和会議が開催されます。李鴻章は講和条件の交渉前に休戦して軍の動きを止めることを望んでいました。しかし、連戦中の日本としては、当面停戦の必要はないので、

「休戦するなら日本軍は天津・大沽・山海関を占領し、その間の鉄道は日本が管理し、休戦中の軍費はすべて清国の負担とする」

と突きつけ、講和条件のほうを先に決めようとします。

李鴻章は顔色蒼然となり、思わず「苛酷、苛酷!」と叫びました。

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正岡子規、従軍記者となる

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日清戦争に従軍する子規
(従軍する前に広島で記者仲間と写した記念写真、後列右が子規)

1895年(明治28年)3月3日、正岡子規日清戦争の従軍記者として東京を出発します。

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威海衛占領 (日清戦争)

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1895年(明治28年)2月2日、日清戦争において日本軍(第二軍)は威海衛と北岸砲台を占領します。

威海衛攻撃は本日を以て始められ、三箇所の砲台は陸軍の為めに奪はれ、一箇所は艦隊の為めに破壊されたり。
威海衛の陸上砲台は悉く没落し唯島上の砲台より抵抗を試みつゝあるのみ。
威海衛は三十日の孝明天皇祭を以て総進撃をなすべき豫ての手筈なりしと聞けば此の電報の云ふ所は蓋し事実なるべし。

明治28年2月2日「報知新聞」記事より

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靖国神社臨時大祭(日清戦争)

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靖国神社行幸
聖徳記念絵画館 壁画「靖国神社行幸」
清水良雄  筆
第一銀行 奉納
明治28年12月17日
靖国神社

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正岡子規、『俳諧大要』の連載開始

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坂の上の雲〈2〉十月十九日、子規は漱石とも別れて松山を発った。帰郷するつもりであったが、まっすぐにはもどらず上方のあちこちを見ようとおもった。広島から須磨まできたところ、にわかに左の腰骨のあたりが痛みだし、歩行もできなくなった。子規の晩年をくるしめたカリエスがここで症状露にしたのだが、子規はこのときはさほどの重症とはおもわず、痛みのうすらぐまで須磨で保養し、やがて、大坂と奈良にあそんだ。

坂の上の雲』(須磨の灯)より

1895年(明治28年)10月19日に松山を発った正岡子規は、10月31日に東京に戻るまでの約2週間、広島、須磨、大坂を経て奈良で遊ぶとなりますが、10月22日から新聞「日本」で俳句への修学課程を説いた『俳諧大要』の連載をはじめます。要するにちゃんと仕事もこなしていました。

俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥ずかしがる莫れ。

『俳諧大要』より

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