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1897年(明治30年) Archive

後藤象二郎、薨去

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後藤象二郎
京屋金介画「後藤象二郎伯薨ず」

1897年(明治30年)8月4日、明治維新の功臣後藤象二郎伯が歿しました。

土州出の政治家――会ては大政奉還の説客として天下を唸らした後藤象二郎さんは正二位伯爵として世を去った。年六十。
「漫画明治大正史」より

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台湾モリソン山を新高山と改称する

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新高山
幸内純一画「新高山の称」

1897年(明治30年)6月28日、台湾一の高山モリソン山(玉山)を、新高山(にいたかやま)と改称しました。

日清戦争に依る新領土台湾のモリソン山は海抜13020尺、駿河の富士山よりも723尺も背が高いので6月28日新高山と改称された。吾々は当時新しい名山を得たる喜びと又今迄日本一と誇った富士に引けを取らせた口惜しさとが混合して妙な気持ちがしたことを子供心に覚えて居る。
「漫画明治大正史」より

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秋山真之と広瀬武夫、海外留学を命ぜられる

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秋山真之
米国留学中の秋山真之(大尉)

1897年(明治30年)6月26日、明治海軍は日清戦争のため中断されていた留学制度を再開し、選抜した5人の海軍大尉を留学生として欧米諸国に派遣します。

この時選ばれたのが、イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、ロシアに広瀬武夫大尉、アメリカには秋山真之大尉が選ばれました。

どれもこれも帝国海軍が誇る選り抜きのエリート達でした。

財部は海軍兵学校を首席で卒業(15期)、村上は次席で卒業(11期)、林は第三位で卒業(12期)、そして秋山真之1890年(明治23年)に首席で卒業(17期)しています。

ただこの中で異色だったのが広瀬武夫でした。

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京都帝国大学の創立

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京都帝国大学
京都帝国大学(京都市上京区)

明治国家が必要とする高等教育と学問研究が求められ、1897年(明治30年)6月18日、東京帝国大学に続く二番目の帝国大学として、京都帝国大学が設置されました。

初代総長は木下広次となります。

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「シベリアの雪解けさ」、広瀬少佐のシベリア横断

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広瀬武夫は、1897年(明治30年)~1902年(明治35年)にロシア留学しますが、日本へ帰国の際に旅順港を視察を兼ねて、極寒のシベリアをソリで単独横断しています。

坂の上の雲〈3〉最初たれだろうと真之はおもった。見まちがえたのは、本来色白なはずの広瀬の顔が黒くなっているだけでなく、その挙措にどこか、日本人ばなれをしたにおいをつけてしまっているせいでもあった。(中略)
「この顔か」
と、広瀬は真之があたえた椅子に腰をおろすと、シベリアの雪解けさ、といった。
きくと、極寒のシベリアをソリで横断したという。

坂の上の雲』(風雲)より

そして、これがその時の写真です。

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俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊

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1897年(明治30年)1月15日、正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。

「日本は売れぬ」
ホトトギスは売れる」
と、子規は漱石にいう。子規にすれば陸渇南の「日本」の社員としてそこから月給をもらっているのであるが、かれ個人で仲間をあつめて出している雑誌「ホトトギス」が大いに売れるのである。
ホトトギス」は、明治三十年一月、伊予松山で創刊号を出した。その創刊号いらい、子規は日本と「ホトトギス」におもに詩文を発表するようになった。
坂の上の雲』(子規庵)より

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