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1903年(明治36年) Archive

フォード自動車会社の設立

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ヘンリー・フォード
フォード―ヘンリー・フォード (世界を変えた6人の企業家)

本日は海外の出来事についてご紹介します。

アメリカの大実業家ヘンリー・フォードが出世の端緒となった自動車会社を起したのが、西暦1903年、日本では明治36年6月15日の事でした。彼が39歳の時となります。

もっとも彼は、既にそれより10年前から自動車の製造に着手しており、今後の新事業として大いに有利であると着眼した彼は、ここに資本金15万ドルを投じて、彼自ら上衣を脱ぎカラーまで外して、工場の一員として奮闘したのでした。

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久田船長の最後(東海丸の遭難)

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1903年(明治36年)10月29日、日本郵船株式会社の東海丸が、津軽海峡の定期連絡航行中、烈しい吹雪と濃霧のため、ロシアの汽船プログレス号と衝突して、同船に大穴をあけられ、沈没前に乗組員一同を救助し、船長の久田佐助は船と共に運命を共にする悲壮な事件が起りました。

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日比谷公園の開設

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hibiya_park.jpg

東京の日比谷公園が竣工して目出度く開園の式が挙げられたのが、1903年(明治36年)6月1日の事でした。

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日本最初の商用車「クレメント号」

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クレメント号
クレメント号

日本に自動車を輸入し、これを商用車とした最初の記録は、1903年(明治36年)4月1日になります。

東京三井服店(現在の三越デパートの前身)が、モートル商会輸入のフランスクレメント会社製造の自動車を購入し、広告用を兼ね商品配達用トラックとして用いたのが始めでした。

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東京初の路面電車開業

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鉄道馬車
1等客車が3銭、2等客車は2銭

1882年(明治15年)6月25日、新橋―日本橋間に鉄道馬車が開通しました。

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伊藤博文と山県有朋の対立

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1903年(明治36年)7月6日、山県有朋の献策により明治天皇伊藤博文に政友会総裁を辞職し、枢密院議長就任を要請します。

侯爵伊藤博文を枢府の重職に就かしむる勅語


朕方今の時局に顧み卿か啓沃に頼るを惟ひ茲に卿を煩して枢府の重職に就かしめ以て国家要務の諮詢に応せしめむとす願ふに維新以来の事業中外に渉りて前途甚だ悠遠なり 朕は卿か積年の勤労に倚信し匡救奨順以て克く其の終始を完くせむことを望む

明治三十六年七月六日

事の背景には、超然内閣体制の継続を望む山県有朋に対して、伊藤博文は議会政治こそ進むべき道と考え、政友会を立ち上げていました。

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東郷平八郎に嫌われた山屋他人

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秋山真之が、海軍大学校から常備艦隊の参謀に転出するについては、いきさつがあります。

坂の上の雲〈3〉すでに海軍では、対露外交がゆきづまりつつある情勢から、極秘裏に開戦を決意し、戦いのための人事を決定しつつあった。
海軍省人事局が、その戦いの人事についての事務局になっている。まっさきに、艦隊作戦のすべてを、三十六歳の少佐秋山真之にやらせることを決定した。
同時に、司令長官を決定した。司令長官は舞鶴鎮守府長官という閑職にある中将東郷平八郎を抜擢することであった。

坂の上の雲』(風雲)より

早速、人事局は司令長官となった東郷平八郎に、幕僚人選の原案を見てもらいます。

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日露開戦における、陸海軍協同作戦計画

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1903年(明治36年)12月30日、日露開戦に向けて参謀本部軍令部の首脳は、合同会議を開き、開戦時の陸海軍協同作戦計画を決定しました。その内容は以下になります。

  • 命令一下第一、第二艦隊は旅順の敵艦隊に対し決戦を企図す。之が為佐世保を出発し先ず木浦付近に集結し、第三日主力を以って旅順に到る予定なるも、敵艦の不意を急襲し得ざれば木浦付近の根拠地に至りて偵察を行い、逐次決戦を求む。
    第三艦隊主力を鎮海湾に集結し、一部を竹敷に配置し、対馬海峡の整備に任ず。
  • 陸軍の臨時派遣隊は海軍の行動に先んじて派遣せざること。早くも之れと同時なること
  • 北京より張家口を経てキャクタ(恰克図)に通ずる電線を切断すること
  • 鏡城以北の電線架設に対する処置法
  • 対馬・函館要塞に臨時演習召集を命じ、且大口径砲一門につき三十発の弾丸を整備すること

『機密日露戦史』より

連合艦隊編制、司令長官は東郷平八郎

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対露開戦はさけられないと考えた政府は、陸海軍の開戦準備完了までの時間をかせぎ、開戦の時期をつかむまで、外交交渉を続けることにしました。

坂の上の雲〈3〉日露間の雲ゆきがあやしくなってくるにつれて、戦時の連合艦隊司令長官は当然日高がなるだろうとみられていたし、現職の常備艦隊司令長官である以上、これははずれることはまずない。日高自身そうおもっていた。
ところが、海軍大臣山本権兵衛は、この時期になって日高を舞鶴鎮守府長官の閑職にうつし、海上兵力の総帥の座に東郷平八郎をすえてしまったのである。

坂の上の雲』(風雲)より

1903年(明治36年)12月28日、枢密院会議を開き、次の緊急勅令を下します。

  • 戦時大本営条例改正
    参謀総長軍令部長を対等とする
  • 軍事参議院条例
    軍事参議官条例廃止、参議官の範囲拡大
  • 海軍軍令部条例改正
  • 憲法第70条による財政上必要処分の件
    軍費支弁のための特別会計資金の繰替使用・一時借入、国庫債券発行、京釜鉄道速成のための補助など規定

そして、常備艦隊を第一・第二・第三艦隊に再編し、第一・第二艦隊をもって連合艦隊を組織し、司令長官を東郷平八郎中将としました。それに併せて、同月26に東郷常備艦隊司令長官の旗艦となった戦艦「三笠」も、連合艦隊第一艦隊に編入となりました。

「海軍工廠条例」公布

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坂の上の雲〈6〉この時期の軍港の活気は非常なもので、海軍工廠では艦船の修理のほか、戦時中ながら造船も行われていた。(中略)海軍工廠は、幕末にスタートした横須賀のそれとはちがい、明治24年に第一船渠(ドック)ができあがった工廠であるため諸事能力において横須賀に及ばないところがあった。

坂の上の雲』(鎮海湾)より

海軍工廠とは軍艦・兵器の製造修理や兵器・艦営需品の調達・保管・供給などを行う機関です。

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アレクセーエフ再び?

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1903年(明治36年)、秋山好古はニコリスクへ視察旅行に出かけ歓迎を受けます。

そして、

坂の上の雲〈3〉この日、好古は、
「旅順へ行きたい」
と言いだして、ロシア側をおどろかせた。冗談ではなかった。旅順といえば大要塞を築城中で、極東におけるロシアの機密地帯のうち、もっとも重要な場所であった。
「旅順におられる貴国の極東総督のアレクセーエフ提督を訪ねて久闊を叙したいのです」
といった。アレクセーエフは、極東における皇帝代理者である。かれが北京にきたとき、好古は会ったことがある。
「・・・・・・旅順は、どうも」
と、接待委員たちはあまりな申し出に、口をつぐんで返答もしなかった。しかし好古は相変わらず強引で、
「ぜひ会いたいんじゃ」
と、日本語で言い、いよいよ相手をうろたえさせた。

坂の上の雲』(風雲)より

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高価な英炭

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日本海海戦において、連合艦隊バルチック艦隊が津軽海峡にきた場合を想定して石炭を大量に搭載していました。

しかしバルチック艦隊が想定どおりの対馬海峡をに姿をあらわしたため、津軽海峡に向かう必要もなく、また艦隊を軽くするためにこの石炭を海に捨てることになります。

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