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1905年(明治38年) Archive

講和全権小村寿太郎外相一行、横浜を出発

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小村寿太郎全権一行
小村寿太郎全権一行(中央が小村寿太郎

1905年(明治38年)7月8日、日本はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの提議を容れ、ロシア全権と講和の談判をなすべく、全権外相小村寿太郎が汽船ミネソタ号にて横浜を出発、アメリカのポーツマスに向いました。

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秋山兄弟の母・貞逝去、その時、秋山好古は・・・

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秋山貞
秋山貞

1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳)

この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟・真之は日本海海戦の後で佐世保に帰港していましたが、兄・好古は未だ中国の地にて守備に当っていました。

その李大人屯の部落に於ける秋山支隊司令部に、秋山貞子母堂の逝去を知らせる、一通の電報が届きました。その電報を、瞬きもせず見つめた好古は、傍にいる従卒の綿貫に、突然と訊ねます。

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東郷平八郎、敵将ロジェストウェンスキーを見舞う

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敵将ロジェストウェンスキーを佐世保病院に見舞うの図
「敵将ロジェストウェンスキー佐世保病院に見舞うの図」

1908年(明治38年)5月30日に佐世保に寄港した東郷司令長官は、6月3日に佐世保海軍病院にロジェストウェンスキー中将を見舞います。

東郷司令長官が静かに歩み寄ると、頭に包帯を巻いたロジェストウェンスキー中将はベッドの上に身を起こして敬意を表しました。

両司令官の面会は、まず東郷司令長官が、病院設備がいかに粗末であることを詫びることばで始まります。それから、同じ海軍軍人ととして、戦闘でのロジェストウェンスキーの勇気を褒め称えました。

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日本海海戦と号外

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島原時報号外(明治38年5月27日)
島原時報号外(明治38年5月27日)

1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦を告げる当時の号外です。
*太陽コレクション かわら版新聞 江戸・明治三百事件(IV) 付録より

島原時報号外 五月廿七日
◎露艦隊朝鮮海ニ向フ
上海発電ニ曰ク露国軍艦二隻廿七日上海沖ニ来リ直ニ朝鮮海に向ヘリ
◎壱岐沖ノ激戦
(廿七日午后八時着電)
只今壱岐沖ニ於テ彼我両艦激戦中ナリ

 長崎県南高来郡湊町四三七番戸
発行所 島原時報社
発行人 若松百大   編纂人 長石安治郎
印刷人 川島全治

*壱岐沖の激戦と記されていますが、後に対馬沖と正式に発表されます。

その他の号外として、

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小林、向後両烈士の殉難

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1905年(明治38年)3月12日、日露戦争奉天会戦直後、秋山好古支隊長の命を受けた小林環大尉は、部下の向後三四郎伍長を率いて、開原から昌図、更に八面城方面へと馬車を進めました。これは最も危険かつ重大な敵情密偵の任務でした。

殊に昌図から奥地へ進めば、どうしてもロシア兵の陣地へ乗込む事となるので、軍服を脱ぎ捨て、汚れた木綿の綿入に着替え、顔や手足に泥をなすりつけ、ガタガタの荷車を馬に曳かせつ、土地の人さえ怪しまぬ程の土民に成り済まして、奥地へと奥地へと進んで行ったのでした。

ところが吉林の東北で、ミシチェンコ騎兵団から一応の取調を受けた際に、あまりにテキパキとした満州語の自供が却って怪しいと睨まれてしまい、ハルピンの俘虜収容所に捕われてしまいます。そのまま二人の消息は全く不明のままとなってしまいました。

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奉天占領(陸軍記念日)

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奉天占領
池田牛歩画「奉天占領」

1905年(明治38年)3月10日、日本軍は奉天会戦に勝利します。

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日本最初の潜水艇

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潜水艇
海軍大演習時の潜水艇(明治42年)

日本海軍に潜水艇が出現したのは1905年(明治38年)1月13日の事であり、アメリカより横須賀に届けられた5隻でした。

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旅順開城の談判

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1905年(明治38年)1月2日、前日の敵の守将ステッセル将軍より降伏開城の申入れを受けた乃木将軍は、軍参謀長陸軍少将伊知地幸助を陸軍委員とし、第一艦隊参謀海軍中佐岩村団次郎を海軍委員として、水師営に赴かせ彼の委員らと会見せしめることとなりました。

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旅順遂に陥る

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旅順要塞
旅順要塞最後の攻撃

肉弾攻撃を行うこと半年余、前後4回に渉る総攻撃の後、南山を取り二百三高地を奪い、ロシア軍の守将をして遂に降伏を決意させたのが、1905年(明治38年)1月1日午後5時の事でした。

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乃木将軍の凱旋

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日露戦役凱旋

日露戦争に武勲たる乃木希典将軍が、寒風吹荒ぶ満州の法庫門を出発、部下の将卒を率いて凱旋の途に就いたのが、1905年(明治38年)12月29日の事でした。

部下の将卒何れも歩一歩祖国に近づくを喜びましたが、乃木将軍ばかりは、少しも嬉しい様子がなく、寧ろ沈鬱にさえ見えました。

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ポーツマスの日露講和談判始まる

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ポーツマスに於ける日露講和談判
左列中央が小村寿太郎全権大使。右列中央がウイッテ全権委員

1905年(明治38年)8月9日、アメリカポーツマスの海軍鎮守府に於て、日露の講和談判が開始されました。

時の外相小村寿太郎が全権委員の首座にあり、ロシア側からはウイッテ以下がこれに列し、アメリカ大統領ルーズベルトが仲裁に当りました。

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樺太の占領

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アレキサンドロフ
日露戦争当時のアレキサンドロフ市街

日本海海戦の大勝利に依り、ロシアの領土である樺太を攻略するに決し、派遣軍が樺太全島を占領したのが、1905年(明治38年)7月31日の事でした。

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奥村五百子、日露戦争の戦地慰問に出発

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奥村五百子

愛国婦人会創立の恩人として知られた奥村五百子(いおこ)が、日露戦争の戦地慰問のため、東京の新橋駅を出発したのが、1905年(明治38年)6月29日の事でした。

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日本海海戦

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三笠艦橋の図
東城鉦太郎作画「三笠艦橋の図」

「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

本日は、Z旗に感激の思い出新たな日本海海戦記念式典の日(旧海軍記念日)です。

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久松五勇士、「敵艦見ゆ」と急使

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宮古島

1905年(明治38年)5月23日の午前10時、沖縄県宮古島の西北沖合遥かに、40余隻のバルチック艦隊が、軸鑪相銜んで北上しているのを同島民の奥浜牛という青年が目撃します。

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「もう戦えません!」、退却将軍クロパトキン辞任する

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クロパトキン

日露戦争中、日本軍が鉄嶺(てつれい)を占領したのが、1905年(明治38年)3月16日の早暁でした。

鉄嶺は水陸の上に交通網・通信網が広く四方八方に通じており、防御陣地としても頗るの要害。奉天会戦に大敗したロシアの残兵は、塔山の方に速射砲30門、蓮花泊の方に8門の砲を据えて、ここを先途と防ぎ戦います。

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陸軍記念日(奉天会戦の大勝利)

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クロパトキン

1905年(明治38年)3月10日の奉天会戦は、日露戦争中でも両軍の運命が決せられようという、最後の大陸戦でした。

難攻不落の旅順も、同年正月元日の未明に陥落して、総崩れとなって敗退したロシアの陸軍は、クロパトキン将軍を総司令として、奉天に集結し頑強に抵抗したのでした。

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奉天会戦最大の激戦「李官堡の戦い」と、大越兼吉少佐の自決

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日露戦争の「関ヶ原」と呼ばれた奉天会戦は、1905年(明治38年)2月20日から3月10日まで二週間以上も続いていました。

なかでも、一番の激戦地といわれたのが、奉天の西12キロの地点にあった李官堡(りかんほ)でした。ここには、ロシア軍を撹乱してその正面兵力を引き付けるために、乃木希典大将率いる第三軍を進撃させていました。

当初、日本の主力は、日本軍の中で最強と云われた黒木為楨大将の第一軍で、この黒木軍で奉天正面突破を行いますが、ロシア軍の頑強な抵抗により苦戦を強いられたのでした。

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日本最初の乗合自動車、広島市に開業

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乗合自動車
乗合自動車

日本最初の乗合自動車開業の地は、東京か大阪かと思えばさに非ず、交通文化の最先端を切って自動車の乗合客を呼んだのは広島市です。1905年(明治38年)2月5日、広島市の横川から可部町間に運転開業式を挙げた事が、中国新聞(第3819-21号)に詳しく掲載されています。

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日露講和条約(ポーツマス条約)締結

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聖徳記念絵画館 壁画「ポーツマス媾和談判」
白瀧幾之助 筆
横浜正金銀行 奉納
1905年(明治38年)9月5日
米国ポーツマス海軍工廠

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日露戦争の終結(明治38年)

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1905年(明治38年)7月31日、樺太で抗戦していたロシア軍が降伏を申し入れ、ここに日露戦争が終結しました。

そもそも、日本軍が樺太の進軍を行った理由というのは、

ロシア軍は奉天会戦日本海海戦と陸海にて大敗北を喫していましたが、「ロシア領土は未だ日本に侵されていない」と講和交渉を渋っていました。

「それなら占領しやすい樺太を奪ったらドウデスカ?」

と、提案したのがアメリカ大統領ルーズベルトでした。

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ところで日露講和会議の全権だけど・・・ 誰にする?

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1905年(明治38年)7月3日、日露講和会議の全権委員に小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使が任命されます。

ところがこの全権委員ですが、当初は誰もが先の下関条約で全権を務めた、かの伊藤博文公がなると思っていました。いや事実そのようでした。

しかしながら、今度の日露講和会議は先の下関談判とは訳が異なり、ロシアは力尽きて和平を乞うてきてものではありません。それもどちらかといえば、兵力乏しい日本は戦争を長期化させない為にも、この辺で第三者(アメリカ)斡旋という形での早期講和開催を願ったというのが実情でした。

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「海軍記念日」と「日本海海戦記念式典」

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日露役日本海海戦
聖徳記念絵画館 壁画「日露役日本海海戦
中村不折  筆
日本郵船株式会社 奉納
明治38年5月27日
連合艦隊旗艦三笠

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参謀総長・山県有朋、「政戦両略概論」を提出

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1905年(明治38年)3月23日、奉天会戦勝利のあと、山県有朋参謀総長は、桂首相・曾根蔵相・小村外相の三人にあてて、「政戦両略概論」なる長文の意見書を提出します。それは数千語に及ぶ長文なものでした。

開戦以来ここに十有四個月、海に陸に戦うて捷たざるはなく、頃日奉天付近の会戦において更に至大なる打撃を敵に与え、長駆して之を開原以北に撃退し得たるは、実に一大快事にして、君国の為に慶賀措く能はざる所なり。顧るに昨年の二月開戦の廟議を決せられたる當時に於ては、誰か能く其の斯くの如くなるべきを豫想したるものあらんや。是れ實に我皇の威徳と我陸海軍将卒の忠勇とに依ると雖も、然れども亦祖宗列聖の冥謹深厚なるに由らずんばあらず。吾々局に當るものは、決して戦勝に倨ることなく、此際益々戒愼を加へて終局の成功を期せざるべからざること、勿論なりとす。

『日露陸戦新史』より

と書き始められますが、その内容は戦勝側の参謀総長ともおもえぬほど苦渋にみちたものでした。

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満州軍軍司令官・大山巌の奉天入城式典

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聖徳記念絵画館 壁画「日露役奉天戦」
鹿子木孟郎  筆
満州鉄道株式会社 奉納
明治38年3月15日
満州奉天城南大門

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日露戦争の関ヶ原、奉天会戦

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「今回の会戦は日露戦争の関ヶ原ともいえるものである。大いに健闘されたい」

満州大山巌元帥の命により、1905年(明治38年)3月1日を期して、日本軍はロシア軍に総攻撃を開始します。世に云う「奉天会戦」が始まりました。
東から鴨緑江軍(川村軍)、第一軍(黒木軍)、第四軍(野津軍)、第二軍(奥軍)、第三軍(乃木軍)と日本軍25万、これを迎え撃つロシア軍は32万となりました。

坂の上の雲〈7〉会戦第三日目の三月一日朝、東方にあたって地軸がゆらぐほどの砲声がおこった。この日、全日本軍の攻勢がはじまったのである。東部にあっては鴨緑江軍が攻撃をつづけ、黒木軍がそれを支援しつつ正面攻撃を開始し、野津軍と奥軍の砲兵が、全力をあげてそれぞれの正面の敵陣地を砲撃しはじめた。

坂の上の雲』(会戦)より

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週刊「平民新聞」、廃刊

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1905年(明治38年)1月29日、『平民新聞』が廃刊となります。

1903年(明治36年)10月、『萬朝報』は開戦論を明瞭にし、記者の幸徳秋水堺利彦内村鑑三はただちに退社、幸徳・堺の二人は翌11月「平民社」を設立します。

平民社
(紋付の着物姿が幸徳秋水

そして同年11月15日、週刊『平民新聞』を創刊します。その冒頭に、

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秋山好古、絶体絶命の危機!(黒溝台の戦い)

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1905年(明治38年)1月25日、ロシア軍は本格的な反攻作戦に転じ、日本軍最左翼に布陣する秋山好古支隊に襲いかかります。世に云う、黒溝台の戦いの始まりです。

坂の上の雲〈6〉秋山好古が、ロシア軍の一大重圧が自分の支隊にのしかかって生きていることを知ったのは、一月二十五日のまだ暗いころである。
午前三時には、最前線の黒林台に出してある前哨(約二個中隊)が、敵の大きな兵力の夜襲をうけて退却のやむなきに至った旨の電話をきいたときから、好古は、
(これは想像以上の事態がおこりそうだ)
と、直感した。

坂の上の雲』(黒溝台)より

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血の日曜日、そして明石元二郎の大諜報

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1905年(明治38年)1月22日(ロシア暦9日)の日曜日、ロシアの首都ペテルブルグで「血の日曜日」と呼ばれる流血事件が起きました。

坂の上の雲〈6〉さほどの革命的性格をもたなかった宗教儀礼的な請願デモに対し、政府はこれを危険とし、歩兵部隊とコサック騎兵をくりだしてこれへ一斉射撃をくわえ、かつサーベルによって殺戮するという事件をひきおこしてしまった。有名な「血の日曜日」がそれである。ネヴァ河祭りにおける誤射事件がなければ、政府の神経もこれほど病的にならなかったであろう。
血の日曜日
では、千人が負傷し二百人が殺されたといわれる。

坂の上の雲』(大諜報)より

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島村速雄、第二戦隊司令官となる

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1905年(明治38年)1月18日、島村速雄は第二戦隊司令官となります。

この日、鎮海湾付近は小雨模様であった。藤井鮫一大佐の汽艇が三笠に近づいたとき、煙雨のなかにカッターが一隻あらわれた。「どなたか」と藤井がきくと、その艇の水兵が「島村閣下です」と答えた。
第二艦隊第二戦隊司令官の少将島村速雄のことである。島村はごく最近まで東郷の参謀長をつとめていたが、いまは加藤友三郎に後をゆずって戦隊司令官になっている。
坂の上の雲』(艦影)より

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招魂祭

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1905年(明治38年)1月14日、乃木希典は水師営南方の丘陵上において招魂祭を行いました。

坂の上の雲〈6〉ステッセルが旅順を去ったのは一月十一日であったが、その二日後に乃木軍は旅順において入城式をおこなった。
翌十四日、水師営南方の丘陵上において戦没者の招魂祭がおこなわれ、乃木は飛雪のなかに立ち、みずから起草した祭文を朗読した。参列した士卒はことごとく泣き、外国の観戦武官や新聞特派員も、祭文のことばはわからないながら目をぬぐった。それを見物していた中国人さえ涙をながしたおいうのは異様な光景というべきものであった。

坂の上の雲』(乃木軍の北進)より

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旅順城入城式

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1905年(明治38年)1月13日、乃木希典率いる第三軍の旅順城入城式が行われました。

乃木が大きなニコライ門を通って旅順に正式入城した日は太陽が輝き、この時分の天気には珍しい好天に恵まれた。入城式は簡単なものだった、とアシュミード・バートレットはつぎのように記している。「軍楽隊の演奏は人々が気楽に聞いておれる程度の貧弱なもので[行進する兵士たちの]敬礼はとてつもなく下手くそなのがときどき混じっており、多くの部隊は明らかに式典のやり方を忘れていた。(中略)
軍服は見る影もなくよごれ、繕いを必要とするぼろぼろの状態で、靴は大きく破れ、銃でさえもあまり立派な状態とはいえなかった。

デニス・ウォーナー著『日露戦争全史』より

入城式の参列者は、少数の報道特派員、海軍武官、残留の旅順市民、看護婦が何人かといった程度でした。

水師営の会見

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日露役旅順開城
聖徳記念絵画館 壁画「日露役旅順開城」
荒井陸男  筆
関東府 奉納
明治38年1月5日
関東州旅順口水師営

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連合艦隊解散の辞

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戦時編制である「連合艦隊」が解散をしたのは十二月ニ十日で、その解散式は翌日旗艦においておこなわれた。旗艦はこの時期、敷島から朝日になっていた。朝日のまわりに汽艇が密集し、各司令長官、司令官、艦長、司令などがつぎつぎに来艦してきた。
やがて解散式がはじまり、東郷は、
「告別の辞」
と、ひくい声で言い、有名な「連合艦隊解散ノ辞」を読み始めたのである。
坂の上の雲』(雨の坂)より

1905年(明治38年)12月20日、連合艦隊はその編制を解かれ、新たに第一艦隊、第二艦隊、南清艦隊及び練習艦隊が編制されました。当時連合艦隊旗艦朝日は横須賀軍港にあり、東郷平八郎司令長官は、上京中であったため、発令は翌日の12月21日に、連合艦隊の解散式が旗艦朝日で挙行されました。

これにより正式に連合艦隊は、その任務を解かれることになります。

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東京湾凱旋観艦式

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凱旋観艦式
聖徳記念絵画館 壁画「凱旋観艦式」
東城鉦太郎 筆
海軍省 奉納
明治38年10月23日
横浜港にて御召艦浅間

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戦艦「三笠」爆沈!

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1905年(明治38年)の本日9月11日、日本海海戦から帰還した連合艦隊旗艦「三笠」が佐世保港内で突然爆発炎上し沈没しました。その死者251名にのぼります。

坂の上の雲〈8〉東郷とその連合艦隊の大部分は凱旋の命令があるまで佐世保港内にとどまっていた。
そういう待機期間中、珍事がおこった。旗艦三笠が自爆し、六尋の海底に沈没してしまったのである。九月十一日午前一時すぎの出来ごとであった。

坂の上の雲』(雨の坂)より

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日露戦争戦没者追悼人形(英霊人形)

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日露戦争戦没者追悼人形

本日は名古屋市博物館で開かれている「2006あいち・平和のための戦争展」を見てきました。

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日露戦争と徳島公園

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本日は徳島での仕事も終えたので、名古屋に帰る前にちょっとだけ徳島公園に立寄る。

徳島公園は蜂須賀氏の徳島城跡地である。1869年(明治2年)の版籍奉還により廃城となり、1875年(明治8年)には城内の建築物が壊された。現在は石垣と堀、庭園、鷲之門が残るのみ。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して「徳島公園」として一般に開放される。

徳島城石垣

徳島城鷲の門

廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊されるが、鷲の門は唯一残されたものの1945年(昭和20年)7月4日早暁の徳島大空襲によって焼失する。現在の門は1989年(平成元年)9月27日、徳島市制百周年を記念して復元されたそうです。

鷲の門

名古屋に夕方までに帰らなければならなかったので公園内に足を運ぶ事ができなかったのが残念です。

明日は海軍記念日

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日本海海戦

明日、5月27日は海軍が定めた日露戦争の戦勝記念日です。
1905年(明治38年)日本海海戦第一日をとり、翌年制定。昭和戦前期には例年東京で天皇の臨席する水交社主催記念式典が行われ、海軍軍楽隊の演奏や陸戦隊の行進があり、また各地の団体や学校でも記念行事が行われたそうです。

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