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1907年(明治40年) Archive

乃木希典、学習院院長に就任 (2)

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日露戦争の第三軍司令官として、旅順の堅塁に又は奉天会戦に殆んど辛酸を嘗め尽さざるを得なかった乃木希典将軍も、遂に強敵を倒して赫々たる勲功をあらはし、東京に凱旋すると間もなく、59歳の老齢でありながらも矍鑠(かくしゃく)たるものがあり、1907年(明治40年)1月31日には明治天皇の御思召により学習院院長を拝命しました。

乃木将軍が学習院長に任命されるや、院内にあって生徒と共に寝食を共にし、一月のうち数回しか自邸に帰る事は無かったという熱誠振りでした。

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慶應野球部と「褌論」

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セントルイス野球団

1907年(明治40年)10月31日、初めてハワイのセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。

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乃木希典、学習院院長に就任 (1)

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1907年(明治40年)1月31日、乃木希典は学習院院長に就任します。

以下は、乃木院長の学習院教職員に対する方針となります。

学習院教職に対する訓示

一、学生の行儀を正敷言語を明確にする為の注意(教員各自に於て)
一、教学聖君に則り各学科特に歴史国文等の上に応用して洩すなく我国体皇室武勇等を啓発するを要す
一、女学部に於て学生より先生に贈物の聞へあり之を禁止せり惣て受授の事は範義の大切なることを学生に迄訓戒する事必要なり
一、各教員交互に他授業を観ることの必要なること及び成るべく他校の事をも見せ申度希望の事
一、本校舎建築の事に付賢き辺の思召に対して注意を要する事
一、他校兼勤を可成可避事

塚田清一著『乃木大将事蹟』より

東京株式相場暴落、成金の没落

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カネが邪魔でしょうがない 明治大正・成金列伝1907年(明治40年)1月21日、東京株式相場が暴落に転じました。

日露戦争後、南満州鉄道創設や鉄道国有化などがなされ、株式会社設立ブームが起こるなど、一時的に好景気が訪れました。このころ将棋の「歩」が運よく敵陣に入って「金」になるように、幸運をつかんで金持ちになったものを、「成金」と呼んでいました。
その代表的な人物が「鈴久」こと鈴木久五郎です。

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乃木大将は水泳が苦手だった

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乃木希典1907年(明治40年)、学習院の院長に就任した乃木希典大将は剣道と水泳に力を注ぎます。剣道、水泳ともに精神を養うのにとても重視したといいます。

乃木大将が学習院長になってから、夏の水泳部は、院創立以来の好成績であったといいます。学習院の遠泳試験は江ノ島から逗子まで海上約8キロばかりを泳ぐそうで、毎年多数の落伍者があるのに、その年に限っては一人も出なかったといいます。聞けば、遊泳中に落伍しそうなものが出ると、仲間の者が手を引いて助け、
 「そら乃木さん! そら乃木大将!」
 「そら旅順口! そら旅順口!」
と同様に調子をとって掛声をして励まし、弱った者もその名によって感奮して泳いだからだといいます。

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乃木希典、学習院生を坊主にする

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日露戦争後の1907年(明治40年)、乃木希典大将は華族学校である学習院長となります。初めての出仕の日、紅顔の生徒を引見して乃木大将は潸然とします。

嘆じて曰く、

藩屏徒に美にして脆きこと瓦の如く、父祖は国に殉じ子孫は修飾に耽る、殷鑑遠きに非ず、咄何者の子弟か、髪を伸べ香水を塗って婦女子の頻に倣う

『名士奇聞録』(明治44年刊)より

乃木大将は万校の生徒を喝して、そしてことごとく頭を五分刈りにしていったといいます。

仁風閣

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(鳥取市)

仁風閣は、鳥取藩主池田家の当主池田仲博侯爵の別邸。

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