- 2006年7月23日 22:52
- 1906年(明治39年) | 児玉源太郎

本日7月23日は、児玉源太郎没後の100年の日です。
1906年(明治39年)の7月21日、児玉は体調がすぐれないと主治医多納氏を呼びます。診断したところ熱37度6分はあるが、ただ咳や頭痛もなく食事も平生と変わらないので、主治医は軽い感冒と診たて、とりあえず本日は外出を控えて安静するようにお願いします。
翌22日、主治医が再び診断するが熱は37度5分と下がっていませんでした。しかし源太郎は「今日は気分がいい」と主治医に告げ、その昼に訪ねてきた台湾民政長官の後藤新平と夕方まで昔話を楽しみ、夕食は専ら好んだ西洋料理を止め、その日は日本料理を食します。その後も家族と会話を愉しみながら9時に寝室に退きます。9時半に源太郎宛に一通の電報が届いたので、侍女がそれを寝室に届けた時、源太郎はまだ起きていたといいます。
そして翌23日早朝、主治医が診断に訪れます。松子夫人より「まだ起きていな」と告げられるが、ただ早起きを常とする源太郎であったので夫人はその旨を主治医に告げていると、その時侍女が「御前様がお起きになられません」という声があり、寝室にかけつけてみるとなんと源太郎はすでにこときれていました。その顔に苦痛などはなく寝顔のままであったといいます。
先の日露戦争開戦前に作戦参謀であった川上操六、田村怡与造が心労により相継いで亡くなります。源太郎は自ら志願し後任となりますが、やはりその死因は心労による脳溢血と診断されます。
フランスのナポレオン、プロシアのモルトケと並び称される児玉源太郎の才を惜しむ声は世界各国が報じ、その葬儀は28日の激しい雨の中執り行われました。
越へはまた里やあらんと頼むてし 杖さへおれぬ老の坂道
これは山県有朋が児玉源太郎の死を惜しみ詠んだ句です。老いた坂道に杖(源太郎)を失った山県有朋の心中が切々と伝わってきます。
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