- 2006年10月27日 00:07
- 正岡子規
1859年(安政6年)10月27日、吉田松陰が伝馬町にて斬首されます。(安政の大獄)
吉田松陰は叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作・久坂玄瑞・入江杉蔵・野村和作・前原一誠・伊藤博文など幕末~明治期に活躍した人材を教育しました。
あたらしく常盤会寄宿舎の監督になった内藤鳴雪は東京でも地名の士であったが、郷里の松山ではむろん高名であった。(中略)『坂の上の雲』(ほととぎす)より
こういう鳴雪が寄宿舎の監督になるというとき、鳴雪を知る者はみな、
「松山の吉田松陰になるつもりではないか」
と、おもった。事実、旧藩としては鳴雪に委嘱する以上、そういうつもりも多少あったであろう。
しかし、当の内藤鳴雪は「私はただ若い書生の仲間に入るだけです」といって、正岡子規に俳句を学び、そして子規門下の長老として活躍することになります。
そこで、司馬遼太郎氏は『花神』でこう述べています。
ついでながら松陰が、明治の俳句復興者の正岡子規と似ている点は、まずその文体である。異常なほどにあかるいその楽天的な文体、平易な言いまわし、無用の文飾のすくなさ、そして双方とも 大いなる観念のもちぬしでありながら、実際に見たものについて語るときがもっともいきいきして多弁になるという点などが共通していた。 さらに子規が漱石にからかわれたように、暇さえあれば文章を書いているというふうな点でも松陰と子規はそっくりであったし、また文体が、 漱石のように簡潔でつよい調子ではなく、なだらかでやや女性的な点でも双方共通している。『花神』(運命)より)
もうひとつ余談をいわせてもらえるなら、松陰・子規ともに、 この相似た文体のもちぬしが、その性情とどういう関係があるのか、双方とも近世日本が生んだもっともすぐれた教育者であることである。
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