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「自由何クニカアル」、自由民権運動

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1881年(明治14年)10月に「国会開設の詔」が発せられ、10月29日に板垣退助を総裁とする自由党が結成されます。1882年(明治15年)9月には高知の立志社、徳島の自助社から自由党員が松山で演説会を開きます。

坂の上の雲〈1〉「志士きたる」
などというはり紙が、大街道の人目につくところに貼り出されていた。自由民権運動家のことを、松山では「志士」といっていた。
高名な植木枝盛が松山にきて鮒屋旅館にとまったときも、中学四年生の子規はなかまと一緒に旅館へおしかけ、意見をきいたことがある。

坂の上の雲』(真之)より

政治に関心をもちはじめた子規は、12月には「自由何クニカアル」と題し政談演説を行ったり、「自由民権雑誌」の発行を企画します。新しい社会、政治情勢への関心はやがて「東京へのあこがれ」となります。

一方、自由党はというと、政府の板垣懐柔策や過激派の独走により運営は苦しく、そして1884年(明治17年)9月に起きた自由党急進派による加波山事件により、党員が次々と検挙され、その結果党勢は著しく衰えます。奇しくも結党からちょうど3年後の10月29日に北野大融寺で行われた大会において自由党は解散を決議します。

なお、植木枝盛は自由党解党以後は高知に戻り県会議員となり、「土陽新聞」で健筆をふるいます。1890年、第1回衆議院議員選挙で高知から出馬し当選します。自由党土佐派の有力者となるが、第一議会で政府と妥協したために、裏切り者と非難され自由党を脱党します。1892年(明治25)1月23日、持病の胃腸病が悪化し36歳の若さで没します。

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