- 2006年11月 4日 00:21
- 秋山好古
かれは数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれの魂魄はかれをくるしめた満州の戦野をさまよいつづけているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、『坂の上の雲』(雨の坂)より
「奉天へ。――」
とうめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。
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Comments:2
- nono 2006年11月 4日 14:15
どうして松山出身の人なのに、東京にお墓があるのですか?
- kaiZer 2006年11月 4日 16:26
秋山好古の出身は松山ですが、好古は陸軍の衛戍地千葉県習志野に生活の拠点をおきます。父・久敬死後は松山にいた母・貞も呼び寄せています。
ただ、好古は晩年を郷里松山で過ごしたいという思いから、大正13年4月から昭和5年の6年間は郷里の北予中学で校長を務めます。しかし、福沢諭吉を啓蒙した好古は子供たちを東京の慶応義塾に入校させたいと思いもあり、家族は東京に残したまま単身で松山に赴任します。
昭和5年7月、北予中学校長も辞任し、北海道へ馬を見に行く目的で途中に寄った東京の長男信好宅で発病します。そのまま病院に入院し11月に永眠します。お墓はすでに亡くなった弟秋山真之と同じ青山霊園に葬られます。
青山霊園には明治・大正・昭和時代に活躍した政治家・軍人の墓が並びます。
(余談ですが、秋山真之のお墓は現在は横浜市の鎌倉霊園に移されています。)一方松山では好古の思いを引き継ぐ有志により、青山霊園の秋山家から分骨を受けて、松山市の鷺谷墓地に秋山好古のお墓を建てられています。




