- 2006年12月14日 00:48
- 乃木希典
1702年(元禄15年)12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討入ります。
元禄十六年、いわゆる赤穂浪士のうち、武林唯七、間新六、岡島八十右衛門ら十人が死を賜っている。
話がさらにとびとびになるが、赤穂浪士というのは討入りのあと、幕命によって、その身柄を四家にあずけられた。細川家、松平家、水野家、そしてこの長府毛利家である。(中略)
要するに乃木希典がうまれて十歳まで育ったお長屋に、武林唯七らが起居していたのである。希典はこの死士たちの最後の日常などを、藩邸の伝承としてきかされつつ育ったにちがいない。『殉死』(要塞)より
乃木希典の生れた、麻布日ヶ窪の毛利邸(現、六本木ヒルズ)は、赤穂浪士四十七士の内、武林唯七以下10名がお預けになり、切腹をした屋敷であります。乃木の幼少時には、よく「お庭拝見」といっては、赤穂浪士の跡を偲ぶものがよく庭口の門から入ってくるのを記憶していたそうです。また、藩中にも武林唯七の書いた筆跡を所持している者も多くあったそうです。
赤穂浪士の墓のある高輪の泉岳寺は、毛利家の菩提所であり、藩公の命日には父十郎はお墓をお参りしました。希典が8歳の頃からは連れてお参りさせます。そして、藩公のお参りがすむと、次に必ず浪士のお墓へもお参りし、父は一人づつの前へ線香を二本づつ上げ礼拝し、幼い希典にも礼拝をさせたそうです。
また、母は浪士の話を希典によく話してきかせ、その時は粛然と容を正して、いかに赤穂浪士が立派な武士で、武士の手本とすべきであるかを熱心に説き聞かせたといいます。希典は錦絵や絵本を買ってもらっては、それを見るのをたいへん喜んだといいます。
後に、乃木希典が山鹿素行を師と考えて尊敬し、模範として学ぶようになるのは、大石内蔵助ら四十七士を薫陶した山鹿素行の生涯その人格を慕ったものであります。



