- 2007年1月15日 00:30
- 1897年(明治30年) | 正岡子規
1897年(明治30年)1月15日、正岡子規の故郷松山で俳句雑誌「ほとゝぎす」が創刊されました。
「日本は売れぬ」『坂の上の雲』(子規庵)より
「ホトトギスは売れる」
と、子規は漱石にいう。子規にすれば陸渇南の「日本」の社員としてそこから月給をもらっているのであるが、かれ個人で仲間をあつめて出している雑誌「ホトトギス」が大いに売れるのである。
「ホトトギス」は、明治三十年一月、伊予松山で創刊号を出した。その創刊号いらい、子規は日本と「ホトトギス」におもに詩文を発表するようになった。
「ホトトギス」は、正岡子規の友人である柳原極堂により誌名「ほとゝぎす」として発行されました。しかし、98年8月(20号)で松山版は休刊となります。
同年10月より東京で高浜虚子が誌を引き継ぎ刊行し、俳句革新運動の中軸となります。日本派の拠点となる一方で、子規の文章会(山会)で評価された写生文など、俳句以外の作品も積極的に掲載します。そして、1902年(明治35年)からは誌名を「ホトトギス」と変更します。
子規没後は、夏目漱石「吾輩は猫である」を連載したのをはじめ、伊藤左千夫「野菊の墓」など小説の掲載が増加しました。大正期に入ると、俳句重視の姿勢を鮮明にし、渡辺水巴・飯田蛇笏・原石鼎・前田普羅・長谷川かな女らを輩出します。昭和期には4Sとよばれた水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十や、日野草城・松本たかし・中村草田男・中村汀女・星野立子らが活躍します。
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