- 2007年1月22日 00:02
- 1905年(明治38年)

司祭ガポンに率いられた民衆役20万人が、皇帝ニコライ二世へ憲法制定会議召集などの請願に向かったところ、ペテルブルク冬宮前広場で、行進中の労働者とその家族に対し、近衛兵が発砲して多数の死傷者を出します。死者は2000人~4000人ともいわれ、平和的な請願に加えられた虐殺によって、民衆の素朴な皇帝崇拝は消え、されに日露戦争に対する不満などが加わり、これを機に全国的に暴動が勃発します。
ロシアより脱出してきたガポン司祭は、レーニンと明石元二郎大佐の下に走ります。
この頃、ロシア国内に効果的な革命を成就させようと諜報活動を行っていた明石は、亡命中の革命指導者たちの派閥主義により、その活動が邪魔されていました。革命指導者シリヤクスは各派を統合する能力はあるが、革命には英雄が必要であると考えた明石は、ガポンは天からの授かりもののように思え、そしてガポンを英雄に祭りあげます。
私は社会主義者の全党派にたいして、直ちに協定を行い、独裁体制に対する武装蜂起・・・爆弾とダイナマイト、それに個人および集団によるテロ行為――大衆蜂起につながるあらゆる行動を開始するよう呼びかけているデニス・ウォーナー著『日露戦争全史』より
と、ガポンは革命指導者を説得してまわります。こうして、この事件は第一次ロシア革命の発端となったのでした。
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