Home > 1902年(明治35年) > 八甲田山“死の行軍”事件が発覚

八甲田山“死の行軍”事件が発覚

Social Bookmarks: このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Yahoo!ブックマークへ追加 add to del.icio.us Buzzurlへ追加 livedoorクリップへ追加 ニフティクリップへ追加

八甲田山 特別愛蔵版1902年(明治35年)1月27日、八甲田山“死の行軍”事件が発覚します。

第8師団の歩兵5連隊と第31連隊は八甲田山の雪中縦断を計画しました。ロシアとの戦いを想定し、陸奥湾が封鎖された場合、八甲田山を越えて青森―岩手の連絡がとれるかどうか、さらには満州原野での耐寒・踏雪の研究も合わせた演習でした。

1月23日、第5連隊の210人は3日間・52kmの行程で三本木(現・十和田市)へ向かって青森を出発しますが、24日県下を襲った記録的な寒気と猛吹雪に道を失い、199人が凍死する“死の行軍”となりました。1月27日未明に、救援隊が田茂木野から10kmほどのところで、腹まで雪に埋もれた後藤伍長を発見します。蘇生後の伍長の話から大惨事の様子が明らかになりました。

一月二十四日八時半頃、風雪いよいよ猛烈にして前の者の通った通路は分秒にしてたちまちその足跡を消し、日又暗く、やみ夜と同じであった。そこで河岸にそって鳴沢凹地にでて、進路を求めようとして方向転換した。一時間余りで鳴沢凹地に到着するや、積雪が胸まで没して、しかも断崖方々に横たわり、険しくてとても近づくことができず、ここに再び左の山腹に方向を転じて斜面をよじ登った。そして少しずつ階段をつくって雪路をふみわけ雪の中を泳いで進んだが、一時間に五〇〇米しか進めず、高地に頭を出すや風雪狂暴のように吹きつけ、寒さ又膚をさし、その温度は氷点下二十五度を降ったであろう。正午頃、手足は凍傷にかかり、まゆ、まつげは氷の柱となり、顔は赤く黒ずみ、又すい魔に襲われ、雪の中にたおれるもの続出し・・・・・・

陸上自衛隊第9師団『陸奥の吹雪』より

異常天候と準備の不足により犠牲を大きくしたこの事件は、遭難直後から、1100人余の兵士などが大規模な捜索を行い、5月27日に最後の遺体を発見することになります。

なお、一方では第31連隊の37人は、20日に弘前を出発し220kmの行程を無事踏破し、29日に無事に青森に到着しています。

拍手する

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ 人気ブログランキングへ

関連エントリー


Comments:0

Comment Form

Trackbacks:0

TrackBack URL for this entry
http://www.sakanouenokumo.jp/mt/mt-tb.cgi/534
Listed below are links to weblogs that reference
八甲田山“死の行軍”事件が発覚 from 「明治」という国家

Home > 1902年(明治35年) > 八甲田山“死の行軍”事件が発覚

Twitter

坂の上の雲 on Twitter

坂の上の雲 on Twitter

Information
Books

「明治」という国家

Calendar
« 2007年1月 »
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
Search
Photos
Tag Cloud
Links
Feeds
Blog Parts

あわせて読みたいブログパーツ

Return to page top