- 2007年2月 1日 00:26
- 1874年(明治7年)
二月一日には、佐賀県士族が大いに集まり、城下にある政府の政商小野組の事務所を襲って金をうばい、挙兵した。政略的にも戦略的にも、どういう計算もなかった。立ちあがれば薩摩も立つ、というだけが、政略のすべてであった。『翔ぶが如く』(薩南の天)より
この時期の江藤は、ちょうど凍った川の上で雪駄をはき、つるつるとすべってゆくように、物事(もしくは自分の運命)を調子よく運んでゆく。すべってゆく自分を、江藤自身も制御できない。
1873年10月の政府分裂後、佐賀県では不平士族が征韓党や憂国党を結成し、不穏な情勢にありました。征韓論に敗れた西郷隆盛らと共に、参議を辞任した江藤新平は郷党の説得に帰京しますが、逆に征韓党の首領に仰がれ、憂国党の首領に推された元秋田県権令の島義勇と手を結び、2月15日には両党蜂起して県庁を襲撃します。
江藤が「大久保はこどもだ」といったこの政敵のほうが打つ手が早かった。じつは一昨三日、現地の政府機関から重大な電報が入った。『歳月』(挑発)より
「佐賀県士族、武装して大挙小野商会を襲い、金幣を掠奪す。挙兵か」
という内容のもので、現地機関の小心さと狼狽を反映したのか、実情とはほど遠い誇大な報告であった。しかし大久保にとってはその程度でよかった。かれはたしかめもせずそれを廟議で発表し、参議さちを驚倒させた。驚倒させるのが目的であり、まずその気分を廟堂でつくっておいてすばやく征討令を出し、征討軍を発しようというのがこの権現家のめあてであった
反乱軍は約12,000人で、緒戦では優位に立ちましたが、期待した他県の不平士族の呼応はなく、参議大久保利通指揮下の鎮台兵によって3月1日鎮圧されます。江藤は逃れて鹿児島や高知に潜入し、西郷隆盛や林有造に決起を促しますが拒否され、3月28日高知県甲浦で逮捕され、4月13日梟首の刑となります。
なお、この時23歳であった児玉源太郎は、征討軍参謀として出征しますが、両腕に弾丸が貫通する傷を受けます。
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