- 2007年2月16日 00:04
- 1884年(明治17年)
1884年(明治17年)2月16日、陸軍卿大山巌は川上操六・桂太郎両大佐を従えて、欧州兵制視察のため横浜を出発しました。
日本陸軍はとにかく設置だけはきめたが、しかしその高等軍事学を教えるべきかんじんの教官がいなかった。『坂の上の雲』(騎兵)より
――外国からつれてこい。
ということになった。(中略)
――フランス陸軍にはもはやナポレオンの栄光は生きていない。むしろこれからはドイツ陸軍の戦術、編制こそ、世界の軍事界の先端をゆくことになるだろう。
という意見がつよくなりはじめており、むしろドイツ陸軍の参謀本部からよぶべきである、ということになった。
このため大山巌と桂太郎がドイツに人さがしにゆくことになり、ベルリンに入り、時の陸軍大臣フォン・セレンドルフに依頼した。
それまで明治政府は江戸幕府の方針を踏襲して、フランス陸軍の軍事顧問団からナポレオン以来の戦術・調練法を学んでいました。
それを一挙にプロシア(ドイツ)式に切り替えることにしたのは、ドイツ陸軍が普墺戦争・普仏戦争でオーストリアとフランスに大勝し、ヨーロッパで最強とわかったからでした。加えて明治政府はプロシア流の君主権の強い「憲法」を制定しようとしたことも理由となります。
陸軍再建に適任の将校を派遣してほしいとの日本政府の要請に対して、ドイツ帝国陸相は初め参謀大尉フォン・デル・ゴルツを選びました。しかし、ヨーロッパ最強のドイツ陸軍を作り上げた参謀総長モルトケは「メッケル少佐にせよ」と人選を覆しました。
メッケルはモルトケの愛弟子で、普仏戦争後は参謀本部付きとなり、陸軍大学校兵学教官と兼ね、「未来の歩兵戦」「戦史学」ほかの著書もある理論家でありました。陸相がメッケルを選ばなかったのは、我国の至宝を日本へ出したくなかったからでした。
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