- 2007年2月20日 00:21
- 明治の人々
これより、毎年2月20日は翁の俳名「鳴雪」から「鳴雪忌」となります。また、別号「老梅居」から「老梅忌」とも呼びます。
一見して、何だか枯れ木のような妙な人であるが、しかし、接した感じが実に好い。仙人に会っているような気がする。風采が第一、背がずぬけて高く、その割合に頭が小さくて、顔がしがんだようで妙である所へ持って来て、その声と笑い声がいかにも奇抜なので、何となく人間離れのした人のような感じがする。
仙人――古い絵に見る仙人に正面に会った時にはきっと生きた鳴雪氏に会った時のような感じがするに違いない。中村武羅夫著『現代文士二十八人』より
内藤鳴雪は松山藩士として江戸で生まれます。
のち、松山藩の藩校明教館で漢学を学び、長州戦争に従軍後、1869年(明治2年)昌平学校に入ります。
1880年に文部省参事官となり、退官後、旧藩の青年育成機関常盤会の舎監を務めながら、藩史料編集に従事します。
ついでながら、この後任として二代目監督になったのが、内藤素行である。俳名は鳴雪。
かれは明治初年には秋山兄弟の父とともに県の学務関係のしごとをしたがのち文部省にまねかれた。この寄宿舎の二代目監督をしていたとき旧藩きっての学才といわれながら逆に子規に俳句をまなび、やがて子規の後援者になり、明治俳壇の興隆に力をつくした。『坂の上の雲』(ほととぎす)より
正岡子規に誘われて俳句に志し、子規門下の長老として活躍します。子規没後も、漢詩の素養を軸に独自の句境を開きつつ、多くの後進を育成しました。著書に「鳴雪俳話」、「俳句作法」があります。

鳴雪は子規より20歳の年長であったにも拘わらず、俳句では子規を常々尊敬していましが、ひとたぶ文学の議論になると互いに声高く論じて譲らず、子規が後日あやまりの手紙をだすことも再三あったと云います。
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