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春や昔十五万石の城下かな

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松山城
(画像提供:観光写真 お貸し屋さん

1949年(昭和24年)2月27日、松山市城山にある国宝松山城本丸入口の筒井櫓附近から出火、筒井櫓をはじめ筒井門・続門・隠門などが全焼します。出火の原因はたき火の不始末でした。

なお、天守閣は無事でした。

松山城は加藤嘉明が1602年(慶長7年)より築城し、翌年松前城を移し本城とします。
当初城は五層の天守閣よりなり、さらに嘉明の考えでは、北方二里の海から運河を開鑿してこれを石手川に結びつけ松山城の外濠とする大計画でありましたが、幕府の忌憚に触れ、工事半ばにして四十万石を賜って奥州会津に転封となります。

次いで1627年(寛永4年)蒲生秀行の次男忠知が、出羽上山四万石より十一万石を加増されてこの城に移りましたが嗣子なく断絶し、1635年(寛永12年)に東照神君家康の異父同母の弟久松定勝の世子松平定行が伊勢の桑名より十五万石を賜り、この城に遷ります。1642年(寛永19年)には城を修営して五層の天守閣を三層に改築します。

それから数代を経て、1779年(天明4年)に落雷で天守閣は焼失しますが、その後再び立て直されます。

明治になり廃藩置県後は城内を開放して公園としたこともありますが、1887年(明治20年)陸軍省の管轄となってから、特に出願するもの以外は、観覧が許されないこととなります。

1923年(大正12年)に久松定謨伯より寄贈され城は松山市の所有となります。

1933年(昭和8年)には小天守閣・南北隅櫓・多聞櫓が放火のため焼失し、1945年(昭和20年)には乾門などを戦災で焼失しますが、その後も復興され現在に至っています。

【松山城を詠んだ子規の代表句】

  • 春や昔 十五万石の 城下かな
  • 餅をつく 音やお城の 山かづら
  • 秋高し 鳶舞ひ沈む 城の上
  • 松山の 城を見おろす 寒哉
  • 松山や 秋より高き 天守閣
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