- 2007年2月28日 00:01
- 1901年(明治34年) | 正岡子規
二月二十八日 晴。朝六時半病牀眠起。家人暖炉を焚く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯を取りかふ。粥二碗を啜る。梅の俳句を閲す。
今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶に活けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛を祭れと命ず。古紙雛と同じ画の掛物、傍に桃と連翹を乱れさす。
左千夫来り秀真来り麓来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋は近頃秀真の鋳たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休手簡の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓の画をほめて
我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代出ぬらん
といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。
左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。
五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。
味噌汁は三州味噌の煮漉、実は嫁菜、二椀代ふ。
鱠は鯉の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟に心づきて俄に当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。
平は小鯛の骨抜四尾。独活、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。
肴は鰈を焼いて煮たるやうなる者鰭と頭と尾とは取りのけあり。
口取は焼玉子、栄螺(?)栗、杏及び青き柑類の煮たる者。
香の物は奈良漬の大根。
飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半を残して得喰はず。飯終りて湯桶に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚のため書きつけ置く。
点燈後茶菓雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音如。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃ち
題釜
氷(こおり)解けて水の流るゝ音すなり 子規『墨汁一滴』(三月二日)より
しかし、河東碧梧桐ら俳人仲間は、子規が歌詠み仲間と交流するのはあまり快くは思っていなかったようです。
鳴雪をはじめ、われわれ仲間は、どれも貧乏書生で、今日を食ふに追はれてゐた。伊藤左千夫、岡麓などいふ歌よみ仲間が出来てから、俳人とは違って、財産もあり、商売も大きかったので、月々いくらかの金を小遣ひによこすことになった。病床の上へ、木綿の財布をつるして、其の小遣いをながめては楽しんでゐたこともあった。われわれが行くと、けふは僕の小遣ひでおごるから、何でも好きなものを註文おしよ、などうれしさうにいふのだった。そんなに、余計な小遣銭を持つことが楽しみなのかと驚きもし何やら涙ぐましくもあった。河東碧梧桐著『子規の回想』より
伊藤左千夫は搾乳の事業で成功しており、岡麓は書房の経営に書家としての名声もあり、生活には余裕がありました。
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