Home > 1895年(明治28年) > 李鴻章、暴漢に狙撃さる

李鴻章、暴漢に狙撃さる

Social Bookmarks: このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Yahoo!ブックマークへ追加 add to del.icio.us Buzzurlへ追加 livedoorクリップへ追加 ニフティクリップへ追加

1895年(明治28年)3月24日、清の講和全権大臣李鴻章が、暴漢の小山豊太郎に狙撃される事件が起こりました。

子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。(中略)
すでに戦いはなく、いわば新戦場の見学旅行のようなかたちになった。かれが日本を出発したときにはすでに下関に李鴻章がきており、講和談判がはじまっていた。
坂の上の雲』(須磨の灯)より

3月20日、下関で第一回日清講和会議が開催されます。李鴻章は講和条件の交渉前に休戦して軍の動きを止めることを望んでいました。しかし、連戦中の日本としては、当面停戦の必要はないので、

「休戦するなら日本軍は天津・大沽・山海関を占領し、その間の鉄道は日本が管理し、休戦中の軍費はすべて清国の負担とする」

と突きつけ、講和条件のほうを先に決めようとします。

李鴻章は顔色蒼然となり、思わず「苛酷、苛酷!」と叫びました。

日本はヨーロッパの列強から干渉されるのを恐れ講和を急いでおり、逆に清国は列強の介入に望みをかけていました。李に数日の考えさせる猶予を与えるなど、交渉を有利に進めていた日本ではあったが、予想もしない事態が起こります。

第三回会議を終えた李鴻章が宿舎に戻るその沿道は、李を見物する群衆で溢れていました。共同便所で拳銃を取り出し、両手を組んで左脇に隠して群衆に紛れ込んでいた小山は、突如、轎の前に飛び出し、2メートルの近距離正面から李の胸部をねらって銃を発射しました。運良く弾丸は胸部に当たらず、李の左眼下中央からわずか1センチの頬に命中しました。

ロシア皇太子を狙った大津事件につぐ事件となった李鴻章遭難事件により、この不祥事が外国の非難を招きはしないかと恐れた日本政府は、李の望む停戦を無条件でのむと提案します。陸奥宗光が病床の李鴻章を訪れてこの旨を伝えると、顔の半分を繃帯した李鴻章は、もう一方の目に隠しきれない喜びを浮かべ、陸奥の手をとると早く講和交渉を再開したいと答えました。

拍手する

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ 人気ブログランキングへ

関連エントリー


Comments:0

Comment Form

Home > 1895年(明治28年) > 李鴻章、暴漢に狙撃さる

Twitter

坂の上の雲 on Twitter

坂の上の雲 on Twitter

Information
Books

「明治」という国家

Calendar
« 2007年3月 »
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
Search
Photos
Tag Cloud
Links
Feeds
Blog Parts

あわせて読みたいブログパーツ

Return to page top