- 2007年3月27日 00:07
- 1904年(明治37年) | 広瀬武夫
1904年(明治37年)3月27日、第二回の旅順口閉塞作戦が行われ、福井丸の広瀬武夫少佐と杉野孫七上等兵槽との二人の戦死者を出しました。
特に広瀬少佐の戦死は、初めての中堅将校の戦死となりました。
あとはボートをこぎつづけるのみである。広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、ボートの右舷最後部にすわって、ともすれば恐怖で体がかたくなろうとする隊員をはげまし、
「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」
と、言ったりした。探照燈が、ボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。
そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。『坂の上の雲』(旅順口)より
士気の昴揚も考慮し、広瀬は即日中佐に特進します。
杉野兵曹長は爆発薬に点火する為め船倉に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て遂に戦死せるものの如く、広瀬中佐は乗員を端艇に乗移らしめ杉野兵槽長の見当らざる為め、自ら三度船内を捜索したるも船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り本船を離れ敵弾の下を退却せんとする際一巨弾中佐の頭部を撃ち中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑たるのみならず其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。『東京日日新聞』(明治37年3月30日の記事)より
さらに破格の功三級に叙せられ、そして、のちにかれは「軍神」と呼ばれることとなります。
文部省唱歌「広瀬中佐」
一、轟く砲音 飛来る弾丸、
荒波洗う デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び、
「杉野は何処 杉野は居ずや」
ニ、船内隈なく 尋ぬる三度、
呼べど答えず さがせど見えず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよ あたりに繁し。
三、今はとボートに うつれる中佐、
飛びくる弾丸に 忽ち失せて、
旅順港外、 恨ぞ深き、
軍神広瀬と 其の名残れど。
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