- 2007年4月 4日 00:32
- 1890年(明治23年) | 明治の人々
1890年(明治23年)4月4日、「ハーパース・マンスリー」誌の通信員ラフカディオ・ハーンが来日します。
ラフカディハーンは1850年6月27日、ギリシャ駐在のイギリス軍医とギリシャ女性の次男として生れます。生後1年半でイギリスに帰るが、6歳の時両親が離婚。以後長く母への思慕と父への反感を抱き続けます。
13歳のとき、学校の遊戯中に左眼を傷つけ失明。19歳でアメリカに渡り、「シンシナティ・インクワイアラー」紙の新聞記者となります。その後フランス文学などの翻訳紹介や西インド諸島の探訪記事を出版します。この頃より、東洋や日本への関心をもち始めます。
1890年に来日しますが、同年8月には松江中学の英語教師となります。旧い日本の面影を残した松江に住んだことはハーンに日本観に大きな影響を与えます。
12月に小泉セツと結婚し、91年に熊本の第五高等中学(現熊本大学)へ転任します。このころから創作に励み、94年に『知られざる日本の面影』を、95年には『東の国から』をアメリカで出版し、深い理解をともなった日本紹介を行います。
小村も、
「カリフォルニア州移民問題は、とうてい外交の力では解決できない」
と、絶望的になっていた。
が、一面では米国の知識層のあいだで、知日気分が盛りあがりつつあった。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の日本紹介の著作群は小村が着任したころ米国で圧倒的な人気をよんでおり、
「社交界ではハーンの話題でもちきりだ」
と小村は言い、かれもあわててあわてて買いそろえてよんだし、また新渡戸稲造の英文『武士道』がちょうど刊行早々でベストセラーになっていた。
1896年には小泉家を相続して日本に帰化し、「小泉八雲」と名乗り上京します。東京帝国大学で英文学講師を務め、上田敏などに多大な影響を与えます。八雲の東大辞職時には学生の反対運動が起こるなど騒ぎとなりますが、彼の後任として夏目漱石が赴任します。ちなみに五高の後任の時も四国の松山中学から夏目漱石が務めています。しかし夏目漱石の講義は評判が悪く、神経衰弱になります。
八雲は1904年から東京専門学校(現早稲田大学)の講師となるが急逝します。名作「耳なし法一」を含む短編集『怪談』が遺作となりました。
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