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東郷平八郎に嫌われた山屋他人

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秋山真之が、海軍大学校から常備艦隊の参謀に転出するについては、いきさつがあります。

坂の上の雲〈3〉すでに海軍では、対露外交がゆきづまりつつある情勢から、極秘裏に開戦を決意し、戦いのための人事を決定しつつあった。
海軍省人事局が、その戦いの人事についての事務局になっている。まっさきに、艦隊作戦のすべてを、三十六歳の少佐秋山真之にやらせることを決定した。
同時に、司令長官を決定した。司令長官は舞鶴鎮守府長官という閑職にある中将東郷平八郎を抜擢することであった。

坂の上の雲』(風雲)より

早速、人事局は司令長官となった東郷平八郎に、幕僚人選の原案を見てもらいます。

そこに記載された参謀は、中佐一名、少佐一名、大尉一名の三名で、中佐に山屋他人、少佐は秋山真之の名が記載されていました。この二人が選ばれたのは、海軍大学校兵学教官を務め、戦術の専門家だからという理由になります。そして大尉一名は、以前より司令部にいた松村菊勇でした。余談ですが山屋他人と言えば、皇太子妃雅子様の曾祖父となります。

ところが東郷はこの原案をじっと見ていたましたが、暫くして筆をとり山屋のところに黒く線を引き、そして有馬良橘と書き込みます。東郷は「山屋戦術」の創始者と呼ばれた山屋を何故か外してしまいました。

その理由は、1903年(明治36年)の3月から4月にかけて行われた対露開戦を想定した大演習にありました。この時の日本海軍の作戦参謀が山屋他人であり、そして想定ロシア艦隊の作戦参謀を務めたのが秋山真之でした。

ところが、ロシア艦隊の秋山の働きが目覚ましく、山屋の日本海軍は大敗を喫してしまいました。これを見ていた東郷は、積極的な秋山に対して、山屋の消極的な作戦を手ぬるいと判断します。依ってこの人事から山屋を外したのでした。山屋より劣るであろう有馬良橘が選ばれたのは、東郷が日清戦争の時に「浪速」艦長の下で航海長を務めた有馬の気心がよくわかっていたからということになります。

なお、参謀長の人事についても挿話があります。東郷平八郎ははじめ参謀長に伊集院五郎を希望しました。しかし山本権兵衛が「彼がいないと軍令部がうまく動かない」と反対します。次にロシア通ということで野元綱明の名があがりますが、どうも心もとない。そして次に名が上がったのが島村速雄でした。すると伊東祐亨が、「日清戦争のとき使ったが、あれはいいね」と言ったことから、それではということで参謀長は島村速雄に決定したと云います。

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