- 2007年4月29日 02:08
- 1891年(明治24年) | 明治の人々
1891年(明治24年)4月29日、丸亀の歩兵連隊に在営中の二宮忠八が作った模型飛行機が、世界で初めて飛行に成功しました。この模型飛行機は、紙で作られてはいますが、プロペラ式のゴム動力で10メートルほどの距離を飛んだといいます。
二宮忠八は1866年(慶應2年)に愛媛県宇和島の出身で、少年時代は「凧張り忠八」と呼ばれたほど凧揚げに熱中していました。余談ですが、二宮が生れた後の2年後に誕生する同じ愛媛県出身の秋山真之は少年時代は「秋山の凧」と呼ばれています。といっても、凧に描く絵が上手だったということですが。
二宮は丸亀の歩兵第十二連隊に看護卒として入営します。陸軍勤務中の1889年(明治22年)、演習中に空とぶ鳥を見て、飛行機の研究を志し、以来、昆虫や鳥の飛行を熱心に研究し、1890年にゴム動力で飛ぶプロペラ式模型飛行機を、1893年には大きさ約2メートルの玉虫型模型飛行機を制作します。
二宮はこの発明の実用化を陸軍上司に2回申請しますが、危険であるということで却下されます。そうこうしている内に、1903年アメリカのライト兄弟の有人飛行成功の報に接して、その研究を中止します。退役後は製薬業に進出し、また京都の飛行神社の神主を務めています。
話は変わりますが、日露戦争の旅順攻略で日本軍は、旅順要塞を前に多大な戦死者を出します。以前に紹介しましたが、参謀次長を務めた長岡外史はこの状況を打破するために、気球を飛ばし旅順要塞を偵察することを思いつきますが、けっきょくは失敗に終わっています。
もし、二宮忠八の飛行機を陸軍が採用し真剣に実案していたら、長岡外史の思いつきも成功していたかもしれません。しかし、二宮忠八の実用案を却下した人物こそが、この長岡外史だったというのは歴史の皮肉を感じさせます。
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