- 2007年5月19日 01:09
- 秋山好古

桶狭間古戦場
1560年(永禄3年)5月19日、尾張の織田信長が、駿河、遠江、三河を領する大大名、今川義元を桶狭間にて破ります。(桶狭間の戦)
武田信玄・北条氏康と同盟していた今川義元は、策略で奪った鳴海城支援のため、駿河・遠江・三河の三国の軍25000を率いて、5月12日駿府を発ちました。17日に沓掛城に到着した義元は、19日西に進軍します。
一方わずか2000人の織田信長は、丸根・鷲津の両砦を救援するため、19日早暁清須城から出陣、同日午後2時頃、桶狭間山で休息中の義元前軍に騎兵による奇襲をしかけます。折からの暴風雨が辺りを包み、織田軍は一気に今川軍の本陣を攻撃しました。義元は退却を指示しますが、前軍の敗走の混乱の中、毛利新介に首を討たれ、大将落命を知った今川軍は総崩れとなり、勝敗は決します。

今川義元の墓
話は明治時代に変わりますが、秋山好古は、フランス留学中に騎兵連隊を見学した時、古参少佐から「騎兵」について教えを受けます。
老教官は、おそるべきことをいった。『坂の上の雲』(馬)より
――騎兵は無用の長物だ。
という。
「古来、騎兵はその特性どおりにつかわれた例はきわめてまれである。中世以後、四人の天才だけが、この特性を意のままにひきだした。」
かれはその四人の名前をあげた。
モンゴルのジンギス汗
プロシャのフレデリック大王
フランスのナポレオン一世
プロシャの参謀総長モルトケ
老教官にいわせると、騎兵は歩兵や砲兵とちがい、純粋の奇襲兵種であり、よほど戦理を心得、よほど戦機を洞察し、しかもよほどの勇気をもった者でなければ、これはつかえない
「居るかね、君の国にはそういう天才が」
好古はこの時、源義経と織田信長の二人をあげ、義経の鵯越と屋島における戦法を説明し、そして織田信長の桶狭間の戦を語ります。この老教官はおどろき、何度もうなずきながら、そして「以後六人ということにしょう」、と云ったといいます。
ところで、この桶狭間古戦場伝説地は、愛知県に二箇所存在しています。上述の写真は豊明市のものとなりますが、以下の写真は、名古屋市緑区の伝説地「桶狭間古戦場公園」です。

桶狭間古戦場公園
もちろん、今川義元のお墓もあります。

今川義元のお墓
よくは分かりませんが、今川義元敗死の地は、古来確実な記録がないため、様々な諸説があるとのことです。ただ、豊明市は昭和12年に文部省に申請して伝説史跡と認定はされています。しかし、昭和41年の名古屋市教育委員会の調査では義元戦死の地という確証は得れなかったそうです。
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