- 2007年6月 5日 00:04
- 東郷平八郎

東郷平八郎元帥葬列 *桜田門外を通過する葬列
国葬とは、国家の儀式として国費によって行う葬儀となります。天皇家や皇族、特別の功績がある者に適用されます。1926年(大正15年)の10月の国葬令により明確化されますが、それ以前もそのつど勅令を発して行われています。1883年(明治16年)の岩倉具視が最初で、島津久光・三条実美・伊藤博文・大山巌・山県有朋・松方正義らが主な例となります。
そして、国葬令後の1934年(昭和9年)6月5日、東郷平八郎元帥の国葬が、日比谷公園で執行されました。葬儀の司祭長は海軍大将加藤寛治が務めます。
葬儀当日は、海軍からは銃隊二個大体及び軍楽隊を儀仗隊として、陸軍からは、近衛師団所属歩兵第三、第四連隊、騎兵一個連隊、野砲兵一個中隊、第一師団所属歩兵第一連隊、騎兵第一連隊の一個中隊、野砲兵第一連隊、合計5,000名より成る大部隊を儀仗隊として、参列しました。
さらに、各国からはイギリス海軍からは、支那艦隊司令長官ドレーヤー大将及び旗艦「サフォーク」、アメリカ海軍からは、亜細亜艦隊司令長官アッパム大将及びその旗艦「アウグスタ」、フランス海軍からは、極東艦隊司令長官リシャール中将及びその旗艦「プリモーゲ」、イタリア海軍からは、極東艦隊の一艦「クワルト」、中華民国からは、王壽延中将及び軍艦「寧海」と、それぞれ国葬参列の為に特派し、これら各国海軍の儀仗兵が葬列に加わります。
8時30分、砲車に載せられた故元帥の霊柩は麹町三番町の東郷邸を発引し、同刻には全海軍の緒艦は弔旗を掲げ、十九発の弔砲を発射し、英米仏伊支五国の派遣艦もまたこれに倣いました。葬列の順路は、東郷邸から富士見町、青葉通角、半蔵門、桜田門、霞ヶ関、日比谷公園正門と、実に1,524メートルとなります。沿道は人で埋まり、各家は黒幕を張り弔旗を掲げて慶弔の意を表します。
霊柩の棺側者は以下となります。
| 海軍中将 飯田久恒 | 海軍大将 末次信正 |
| 海軍中将 清河純一 | 海軍大将 黒井悌次郎 |
| 海軍大将 大角岑生 | 海軍大将 安保清種 |
| 海軍大将 谷口尚真 | 海軍大将 竹下勇 |
| 海軍大将 山本英輔 | 海軍大将 岡田啓介 |
| 陸軍大将 真崎甚三郎 | 枢密顧問官 河合操 |
| 陸軍大将 渡辺錠太郎 | 枢密院副議長 平沼騏一郎 |
| 陸軍大将 奈良武次 | 貴族院議員 徳富猪一郎 |
| 陸軍大将 町田経宇 | 海軍法務官 吉村幹三郎 |
9時48分に日比谷公園に達し葬儀が執り行われます。
14時58分には霊柩は日比谷を発引し、自動車に乗り換えられて一路多摩墓地に向かい、墓所の儀が厳かに了えられたのは19時となりました。

多磨霊園の東郷平八郎の墓
葬儀のこの日より五十日祭の果てる迄、日露戦争中に東郷平八郎元帥の旗艦「三笠」に勤務した将士は、毎日交代で欠かさず元帥の墓所に奉仕したといいます。

特に、当時大尉参謀であった清河純一中将は老躯にもかかわらず、毎日謹直に奉仕し、他の参拝者を太く感動させたといいます。しかし、その彼も体に無理を強いたために、翌10年の3月1日に亡くなります。
- Newer: 日本最初の近代的植民地支配、台湾鎮定
- Older: 東郷平八郎元帥、天寿を全うする
Comments:2
- 小林明 2010年11月23日 20:22
「東郷平八郎元帥の国葬」の文中、「霊柩の棺側者」として氏名があるうち真崎甚三郎、渡辺錠太郎、奈良武次、町田経宇は海軍大将ではなく、陸軍大将です。
- 海座 2010年11月23日 23:26
訂正しました
ご指摘ありがとうございます



