- 2007年6月11日 00:06
- 1895年(明治28年) | 乃木希典 | 児玉源太郎 | 聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館 壁画「台湾鎮定」
石川寅治 筆
台湾総督府 奉納
明治28年6月11日
台北城北門
日清戦争における威海衛の戦いで黄海の制海権を掌握した日本軍は、さらに南シナ海の制海権を抑えるために、1895年(明治28年)3月、台湾と中国本土との中間にある渤湖島を占領します。そして、中国侵攻の基地として、台湾領有の方針を固め、講和条約成立後に海軍大将樺山資紀を台湾総督とし、さらに軍事的抵抗を予想して北白川宮能久親王のひきいる近衛師団を台湾に派遣します。
近衛師団は、抵抗らしい抵抗もうけずに基隆(キールン)を占領します。しかし台北には二万の大兵が集中されていると聞いていたので軽々しく進撃するのを控えてはいたが、ところが台北は前線から逃亡してきた兵士の掠奪・暴行で大混乱におちいり、唐総統はじめ民主国の首脳はたちまち大陸に逃走してしまっていた。台北の土紳らは、こうなっては日本軍の入城を要請するほかないということになり、日本軍は6月7日、台北に無血入城します。
6月11日、北白川宮師団が台北城に入城、14日には樺山総督も入城し、17日に始政式を行い、ここに日本による最初の近代的植民地支配が開始されることとなりました。
勢いにのる日本軍は新竹・台中などもあっけなく陥落し、日章旗を翻す人民を見て、台湾平定はたちまちに成功するかにみえました。
しかし、意外なところから頑強な抵抗が生じます。地元民の反抗でした。日本軍が清軍を撃破して前進したあとで、地元民が逆襲して小都市を奪還するというような事態が次々に発生します。おまけに飲料水が欠乏し、不潔な天然水を使用する結果、赤痢やマラリヤ熱に冒される将兵が続出します。そのため日本軍は南進を一時あきらめることになります。
この事態におどろいた日本政府は、新たに大連にいた乃木希典の率いる第二師団を増援部隊として台湾南部に、また混成第四旅団を中部に上陸させ、土民の抵抗を粉砕します。こうして第二師団は10月22日には台南に無血入城し、全台湾を平定します。(北白川宮能久親王は台南で病没)
しかし、台湾は陸海軍の総督府により行政が執り行われますが、土民の執拗な抗日運動はおさまらず、決して安定した状態とは言えませんでした。1898年(明治31年)に台湾総督となった児玉源太郎は、陸海軍人ではない後藤新平を民政長官に登用し、台湾の安定化に努めます。
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