- 2007年6月15日 00:02
- 1904年(明治37年)
とくに「常陸丸」は、1898年(明治31年)竣工された国産初の外国航路用汽船であり、もともとは日本郵船の欧州航路用貨客船でした。しかし日露戦争においては、陸軍の兵員を輸送するために用いられます。
1904年6月に近衛後備歩兵第一連隊の兵員を満州へ輸送中に、玄界灘でウラジオ艦隊に攻撃され、乗員1000余人は戦死水没し、とくに輸送指揮官須知順次郎中佐の最後は軍旗を焼いたあと、笑顔を見せつつ割腹し船とともに没したと云われます。

青山霊園「常陸丸殉難近衛後備隊将士の墓」
この遭難事件以前にも、ウラジオストック艦隊により、青森県艫作崎沖で「奈古浦丸」、朝鮮東岸の元山港で「五洋丸」、元山沖で陸軍輸送船「金州丸」といった運送船遭難事件が相次いで起こっていました。
この忌々しいウラジオストック艦隊を「撃破するか威嚇して釘付けにせよ」という命令を帯びていた上村彦之丞第二艦隊であったが、何度もウラジオ艦隊を取り逃がしていたため、次第に国民はこれを非難しはじめます。
とくに濃霧があり取り逃がしてしまったという事情が報道されると、「濃霧を逆さまに読めば無能ではないか。無能艦隊である。」と言い放つ代議士までいました。
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