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青梅をかきはじめなり果物帖

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青梅

1902年(明治35年)6月27日に、正岡子規は画帳に青梅を写生します。

これが「果物帖」のはじまりとなります。

それは、子規の死の三ヶ月前のことでした。

写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてよい位である。(中略)理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとしてかへつて池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至つては、その妙実に言ふべがらざるものがある。

「病牀六尺」(六月二十六日)より

明治27年、正岡子規は「小日本」の挿画を描く中村不折の画論に感心し、明治32年秋より彩色の妙を知り、不折からもらった絵具で秋海棠を写生します。浅井黙語や不折にほめられ、「嬉しくてたまらん」と夢中になります。

子規は6月27日に青梅を画いたのを手はじめに、丹念な色彩の写生を続けて、くだものだけではなく、南瓜とか、茄子とか、胡瓜とかいうものも画きます。8月6日までの間に18枚の写生を行います。

ところで、「病牀六尺」が百回に達した時に、子規はこう述べています。

この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。しかしあとにはまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上すれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くのであらうか。

「病牀六尺」(八月二十日)より

「果物帖」のいちばん最初に「青梅」を描いたのも、この気持ちであったのかと思います。

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