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伊藤博文と山県有朋の対立

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1903年(明治36年)7月6日、山県有朋の献策により明治天皇伊藤博文に政友会総裁を辞職し、枢密院議長就任を要請します。

侯爵伊藤博文を枢府の重職に就かしむる勅語


朕方今の時局に顧み卿か啓沃に頼るを惟ひ茲に卿を煩して枢府の重職に就かしめ以て国家要務の諮詢に応せしめむとす願ふに維新以来の事業中外に渉りて前途甚だ悠遠なり 朕は卿か積年の勤労に倚信し匡救奨順以て克く其の終始を完くせむことを望む

明治三十六年七月六日

事の背景には、超然内閣体制の継続を望む山県有朋に対して、伊藤博文は議会政治こそ進むべき道と考え、政友会を立ち上げていました。

そこにもって、山県系の桂太郎日英同盟で内外上下から勲功を賞揚されます。しかし桂は大先輩の伊藤を有って無い者のような扱いをしたものだから、伊藤は帰朝後桂に一泡吹かそうと決心していました。

当時桂首相は第三期海軍拡張の財源として地租増徴継続案を立て、11ヵ年継続として1億円を計上していました。しかし、伊藤はこれを根本から立替さそうと考え、民力休養を名とし事業繰延べ、軍備縮小、正貨維持を勧告します。

だが、桂は受け入れませんでした。

それならばと、伊藤は第十七議会で憲政本党と力を合せ政府案を否決し、議会解散に追い込みます。これには桂も伊藤を敵とするのは不利を考え、こっそりと伊藤と提携してしまいます。

この伊藤・桂の握手は独断で行われたため、憲政本党は狸共に売られたかという不平が出てきた。これを見た山県系の大浦兼武は政友会の不平分子を扇動します。この結果、尾崎行雄・片岡健吉、林有造等は政友会を脱退してしまいます。

そして、山県有朋の策略により伊藤博文は直参の西園寺公望に総裁職を譲り枢府に入ります。

これでほっとしたのは桂で、目の上のコブが取り除けたのでした。そこへ日露戦争が起こり、歴代内閣としては最長命内閣として4年7ヶ月を存続するに至ります。

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