秋山真之は、「日本海軍の三祖」と云われた加藤友三郎には、ちょっと嫌われていたようです。
加藤が真之の同意を得るべくふりかえったとき、真之は両眼をするどく光らせていたものの、しかしあごだけはしきりにうごいていた。例の空豆の煎ったのをポケットからとりだしては、噛みくだいているのである。『坂の上の雲』(死闘)より
(このばかが。――)
と、加藤はあとあとまでこのときのことをおもっては腹がたった。
東郷平八郎、山本権兵衛といった「日本海軍の三祖」の一人である加藤友三郎は、とても聡明な人で、1880年(明治13年)に海軍兵学校を次席で卒業し、海軍大学校ではの首席(第一期)で卒業しています。
この時にエリート好みの山本権兵衛の知遇を得て、日清戦争中に海軍省軍務局に入ってからは、主として軍政畑を歩き、やがては海軍きっての軍政通となり、後に第21代内閣総理大臣となります。
その加藤も、日露戦争のときには日本海海戦の頃より連合艦隊の参謀長を務めていますが、作戦面ではさしたる功績を出していません。それには、先任参謀に秋山真之という東郷司令両艦の片腕といわれた名参謀がいた為で、東郷とぴったりと肚を合せていたので、軍政畑の加藤にはとても出る幕はなかったのでした。
具体的な作戦計画は秋山が全部やり、加藤がそれを東郷平八郎司令長官に取り次ぐのですが、秋山真之はときどき加藤を無視して直接に東郷司令長官に進言しようとします。これには加藤のプライドが許さなかったようで、加藤はのちに海軍大臣になってから、こういう呟きをもらしました。
「秋山もいいけれど、もう少しおれを立ててくれないと困るよ――」
ですから、加藤系の人は、秋山真之に対してとても風当たりが強かったと云います。
秋山真之は加藤友三郎と比べて旅順沖、日本海海戦と東郷平八郎と辛苦をともにしていたこともあり、ついつい勇み足な行動・言動があったのかもしれません。
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