- 2007年8月 6日 00:59
- 1897年(明治30年) | 広瀬武夫
広瀬武夫は、1897年(明治30年)~1902年(明治35年)にロシア留学しますが、日本へ帰国の際に旅順港を視察を兼ねて、極寒のシベリアをソリで単独横断しています。
最初たれだろうと真之はおもった。見まちがえたのは、本来色白なはずの広瀬の顔が黒くなっているだけでなく、その挙措にどこか、日本人ばなれをしたにおいをつけてしまっているせいでもあった。(中略)
「この顔か」
と、広瀬は真之があたえた椅子に腰をおろすと、シベリアの雪解けさ、といった。
きくと、極寒のシベリアをソリで横断したという。『坂の上の雲』(風雲)より
そして、これがその時の写真です。

シベリア横断中の広瀬武夫
広瀬武夫は、この時の体験を海軍省に報告しています。
とくに写真の防寒服については、下記のように述べています。
先づ第一番に下に着けましたのは彼の日清戦争中に頂きました、
毛織の厚い襦袢
です。而して背筋が冷えると堪らないということをききましたから自分の思い付で其の襦袢の背筋に当る所に真綿を縫い付けました。又腹にはフランネルを巻付て居り、腰にはベイトルスプクグに在る日本人より貰い受けたる真綿で作りました半ズボン下を穿ち、此上にフランネルのズボン下をはきました。又或人が申しますには肩より寒気の入るには堪え兼るとのことですから、水兵の用ゆる同じ様な毛織襟巻を肩より十字に巻き付け軍服を着まして此上に外套をきましたが、それは都合三枚です。此通り表も裏も毛皮です。非常の寒気になると、
綿は殆ど効力はない
是非とも毛皮に限るのです。而して第二に此征服の外套を着ました。此外套は御覧の通りに充分綿は込み入れても居り中々重くもあり又暖いです。而して此上に此外套露国でシネーリと称する物にて交際場裡の紳士の着るもので随分高価のものです。之で斯いう安梅に引きかついで居ました。斯ういう様に襟を立てたのです。此シネーリは随分暖いもので露都でも一枚あれば大抵の寒気は凌げるのです。斯く三重の外套を着て居っても寒気の厳しい時には却々応えます。頭には此毛皮で製しました頭巾を被り、斯う云う風に風に耳を覆います。又或人の言いますには、
手の凍える程苦しいものはない
との事ですから、先づ下に此毛糸製の浮き手袋を穿ちたる後に、母指丈離して他の四本の指を一所にしたる此毛皮の手袋を付けました。シネーリを着た時は斯くいう風に、ここの隠に手を突き込んで歩行する故に殆ど手袋の必要がないのです。斯く申上る通り手も殆ど三段の防御がありますけれども、寒気酷烈の時は指先がうづきだします。又云う足の冷るが尤も苦い。それで一般にはフェヤノート製の長靴を穿ちますが、幸に私は露西亜の知己にして当時大佐なる人が北海に航海せし時サマエードという土人が製したる靴を購い置きたりとて餞別として私にくれました。此通り毛皮で出来て却々立派です。私は之をじかに穿ち、又半靴を一所に穿いたことがありました。之で大に助りました。尚一つ之も餞別の為めとて貰いました物で私の知人が予て、
冬期ウラル附近を跋渉
せし時の物です此通り全く熊の毛皮をひっくり反して斯の通り長く作りたるものです。併し靴先が普通に製してありますから以前のものに比すれば足先が冷えますから水分が一寸とも滴ることがない丈け雪を踏んだなりで室へ入りて其雪が溶ける時など此方がずっと便利であります。靴下に就いても私が常に二枚の毛糸製を穿ちましたが、或人の話により又現に実見せし所によればフランネルの長さ三四尺なるを取り、爪先より巻き上てズボンの上より確と巻き止め、其後此等の靴を穿くを以て最も宜しき事と思います。而も脂が出て冷を感ずる時は再び之を巻き直せば肉体に接する位置が違う故に又暖かくなります。『軍神広瀬中佐壮烈談』(中佐の西比利亜満州実歴談)より
防寒服の説明ですが、喋っている本人が次第に熱くなっているのがおかしいです。
- Newer: 艦上の非戦闘員、その名はタマとキジ
- Older: 明治の写真雑誌「日露戦争写真画報」を入手
Comments:1
- Yuki 2010年12月 5日 21:36
タケオさんの写真が素敵すぎる、、
Trackbacks:0
- TrackBack URL for this entry
- http://www.sakanouenokumo.jp/mt/mt-tb.cgi/650
- Listed below are links to weblogs that reference
- 「シベリアの雪解けさ」、広瀬少佐のシベリア横断 from 「明治」という国家




