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「日本海海戦の父」、黄海海戦

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1904年(明治37年)8月10日、旅順を脱出してウラジオストクの艦隊と合同しようとするロシア太平洋艦隊に対し、東郷平八郎大将の日本連合艦隊主力がこれを阻止します。(黄海海戦

坂の上の雲〈4〉のちに、
黄海海戦
とよばれる、日本側にとってもロシア側にとってもこの惨憺たるこの海戦は、旅順艦隊司令官ウィトゲフトの出港への大決断からおこった。
かれは八月八日に、
――これは皇帝の意思である。
という、極東総督アレクセフからの電報をうけとった。
すみやかに出航せよ、ウラジオストックへゆけ、という命令であった。ウィトゲフトはついに決心し、九日はその準備についやした。

坂の上の雲』(黄塵)より

本格的な艦隊決戦となったこの海戦で、連合艦隊は優勢に戦いを進めるも、旅順艦隊は一隻の沈没艦を出すことなく、包囲網をかいくぐって逃走した。とくに72本の魚雷を発射したにもかかわらず、一発も命中させることができなかったのでした。

一方で、旅順艦隊も逃げ延びることはできたものの、主力は旅順港に敗走、戦艦など7隻は上海やサイゴンで武装解除され、目的であるウラジオストックへは一隻もたどり着くことができませんでした。

この黄海海戦をアメリカのマハンは著書「海軍戦略」でこう評します。

翻りて旅順に封鎖されたる露国艦隊の当に取るべき行動如何と云うに、ウラジオストク到達を以て其の目的とすべきこと勿論なるべし。厳冬漸く去り、ウラジオストク港の堅氷次第に解けんとするに及んで、日本は旅順艦隊をウラジオストクに逸せば事態益困難となるべきを認めたり。
是即ち敵をして好位置を占めざらしむてう戦略的考慮なり。されば日本艦隊が、8月10日の旅順港外海戦に於て旅順艦隊を港内に帰還せしめしを以て戦略的成功の一に数え居れるは当然なり。首脳部の意見を知り得べき位置に在る一日本将校が、本海戦に関し新聞紙上に発表せる意見左の如し。
若し8月10日の破封鎖出撃に於て、露国戦艦及び巡洋艦の若干隻を、久しく攻囲しがたきウラジオストクに逸せりとせば、第二期即ちバルチック艦隊到着以後の海上作戦に於て日本及び日本海軍は最も困難なる戦略的状況下に置かれたるべし。

また、秋山真之も後年こう述べています。

世人は概ね日本海海戦ばかりを大騒やつて、ややもすると黄海海戦などは名さへも忘れがちであるのは遺憾千万だ。成る程日本海海戦は如何にも華々しく、殊に敵全艦隊を撃滅したのであるから、それのみが世人の眼に映ずるのも無理ならぬ次第だが、東郷大将としては黄海海戦の際の方が苦心の度は多かったらうと思ふよ。のみならず此の海戦の実地の経験が、日本海海戦をして彼の如き大功を奏させた主なる原因をなしていると考える。

黄海海戦なくして、後の日本海海戦の大勝利はなかったと云われ、俗に黄海海戦をして、「日本海海戦の父」と呼ぶのです。

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