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日本軍はじめての反乱事件、竹橋事件

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近衛砲兵暴発

1878年(明治11年)8月23日の夜、東京竹橋にある近衛砲兵大隊の兵士が中心となっ暴動が起きました。日本軍はじめての反乱事件でした。(竹橋事件

事件の原因は、徴兵令で駆り出された農村出身の次・三男の兵士が、西南戦争の論功行賞の遅れと不公平、それと戦後に給与が削減されたことへの不満をつのらせていました。

その頃、紀州出身の岡本柳之助砲兵中佐は、薩長両藩が威張っていることに我慢できず、この論功行賞の不平を利用して、一挙に天皇に直訴しようとして行動をおこしたとみられています。また最近では、その行動の背景に自由民権思想の影響があったという説もあります。

暴動兵は隊内の制止者であった大隊長宇都宮重敏少佐と週番深沢巳吉大尉を殺害し、営内に火を放ち、山砲をひいて赤坂の仮御所に向かいました。やがて皇居・砲兵本廠・大蔵省などを取り囲み、ついに暴動兵は仮御所正門前まで迫りました。

近衛歩兵連隊や東京鎮台砲兵大隊からも同調者が出るなど、その勢いに一時は騒然となりましたが、部内から密告するものもあって、彼らは合流する前に鎮圧されます。
事件は34時間で解決しました。

この事件に参加した「暴動兵」は、合計259名で、明治11年10月15日、そのすべてに対して陸軍裁判所で判決が言い渡され、55人が死刑、準流刑以下徒刑など302人という一大事件となりました。

この事件後の明治11年10月12日、軍当局は「軍人訓戒」を発して軍紀の徹底を図ります。とくに軍人の精神を確立するため、「忠実・勇敢・服従」の徹底を強調しました。

さて、首謀者であった岡本柳之助砲兵中佐ですが、彼は取調べ中に発狂状態であったため、止むなく官職は剥奪されて無罪放免となります。しかし翌日には平気で市中を歩いていたといいます。後に岡本は、金玉均の日本亡命を援助し、1895年(明治28年)に、三浦梧楼らと朝鮮の閔妃殺害事件をおこし、投獄されています。

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