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西南の役の発端

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西郷隆盛が私学党を率いて遂に官軍対抗の意を決したのが、1877年(明治10年)2月3日の事で、西南の役はここに端を発しました。

1873年(明治6年)10月、征韓論に敗れた西郷隆盛は板垣、後藤、副島、江藤らと共に連袂辞職して郷里鹿児島に帰り、私学校を設立して郷党子弟を教育、暇さえあれば愛犬を連れて悠々山野を駈けて狩猟に日を送っていました。

その間にも政府に対する不平党は、佐賀に乱を起し、あるいは熊本の神風連となり、秋月の乱ともなって、九州の雲行甚だ不穏な情勢であったので、政府でも西郷のいる鹿児島に対しては、十分警戒の目を瞠り、多数の警視庁警部を派していました。それがため鹿児島では西郷が暗殺されるものと取沙汰している折柄、草牟田に兵器火薬庫を置くのは頗る危険だとあって、急にこれを陸軍省の命令の下に大阪に移そうとしたのが1月30日でした。

ここにいたって私学党の憤激一時に爆発して、30日から2月1日の3日間に、徒党を組み暴力を揮って兵器火薬庫を奪還します。

かくして官軍との正面衝突となり、事の次第が西郷隆盛に急報されたのが2月3日。
西郷はこの日も好きな狩猟のため、下僕一人と三匹の犬を連れて、鹿児島湾口の小根占に出かけていたが、意外の電報に驚駭し、急いで自邸のある武村に帰って来ます。そして暴動を働いた生徒中の主だった者を庭先に集めて、一通りの報告を聞き取った上で、

「おはんたちは何たることを仕出かしたか」

と大声一渇くらわします。

血気にはやる青年の純情から、主領西郷のため、郷里の為めと考えてやった事が、却ってお叱を受ける結果となったが、既に後の祭、この上は右するか左するか、西郷の決心一つとなりました。愛する私学校の生徒多数を罪人として突出すか、敢然立って官軍に反抗するか、その何れかの道一つを選ぶより外は無かったのでした。

篠原国幹桐野利秋らも西郷の決意を迫り、それから間もなく2月17日には15000の薩兵を率い、政府間罪の師が発せられ、遂に西南の役の火蓋が切られたのでした。

有史以来、同胞が相打つ戦争記録は数々ありますが、西南戦争はその歴史の最後と言えます。

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