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四十七烈士の特別任務班と堀部直人(日露開戦)

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堀部直人
堀部直人

日露戦争開戦当時、重大な使命を帯びた特別任務班が結成されます。それは赤穂四十七士にちなんで沖禎介、横川省三ら47名が選抜されました。

ところがここに北京の八旗中学堂という中国人の中学校にて教官をしていた陸軍予備少尉堀部直人という人がいました。彼はたまたま特別任務班の事を聞き込み、報国殉忠の精神に燃え立ち、我こそその一員に加わって日本男子の面目を施さねばならないと、直ぐに北京公使館の青木宣純大佐を訪ね、内々に特別任務班に参加を願い出ました。

「不肖私は軍籍に身を置きながら、今回の戦争に召集されないのは、誠に残念千萬であります。就いては今回特別任務班が組織されたという事を、ある方面から聞き込みましたが、是非共私をその一員に加えて頂きたいのです。」

と懇願しますが、固より特別任務班は軍事上の重大機密に関する事で、隊員以外には絶対に知らない事なのに、堀部少尉がこの事を耳にした事が意外であったため、青木大佐はきっぱりと、

「そんな事は知らん」

とはねつけます。

それから間もなく1904年(明治37年)2月10日には、ロシアに対し宣戦布告されますが、暗に待ち焦がれた彼の召集令状は遂に来ず、堪えかねた堀部少尉は、叱られるを覚悟で再度青木大佐を訪ねます。再度隊員参加を強く願い出ますが、大佐としても相変わらず

「私は知らん」

と言うより外はありませんでした。

すっかり落胆した彼は、2月14日の夜明け前、北京学堂教官室の自分の一室に、天皇皇后両陛下の御尊影を安置し、遥かに下って三拝すると、軍刀逆手に割腹します。それでも死に切れぬと思ったのか、さらにピストルで頭部を撃ち抜き、30歳という短い生涯を終えたのでした。

急報に接して青木大佐も駆けつけますが、既に息はなく、

「一死報国の大切なる機会に洩れ、帝国軍人として遺憾千萬」

という意味の遺書を見て、強きこと鬼の如き青木大佐も初めて男泣きに泣いたと云います。

沖禎介、横川省三などの特別任務班が、密かに誓約報国祭を挙げたのは、あたかもその翌日の2月15日でした。その47名の特別任務班の一行も、彼の壮絶な自決を聞いて痛く感激し、同月21日には堀部少尉が自殺に用いたピストルを形見に貰い受け、吹き荒れる寒風を衝いてその特命に就いたのでした。

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