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土佐藩兵とフランス水兵の衝突事件(堺事件)

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1868年(慶応4年)2月15日、堺事件という国際紛争事件が起りました。

事の起りはフランスの領事一行が大阪から陸路堺に入ろうとしたが、堺の警備の任に当たっていた土佐藩の兵は、外国事務局から何らの通報を受けていなかったので、通す事罷りならぬと、中途から引き返させてしまいました。

すると同じ2月15日の夕刻、この領事一行を出迎えるため、フランスの軍艦デュブレクス号が堺の港に入り、士官以下数十名の水兵が上陸し、物珍しく市内の徘徊を始めたので、土佐の藩兵は役目として、帰艦を勧告したわけですが、お互いに言語不通で小競合いが始まりました。

何しろその時分までは攘夷熱が冷め切らず、毛色の変わった西洋人といえば、蛇蝎の如く忌み嫌った時代の事であり、すったもんだの末に、フランス兵が誤って土佐藩の隊旗を倒します。

「神聖な隊旗を倒すとは言語道断だ」

と、血気に逸った藩兵が、

「無礼者」

と、一発銃を放った為、たちまちに衝突は大きくなり

「生意気な毛唐だ、やっつけてしまえ」

と、フランス兵11名を殺傷します。(士官1名、水兵10名)

死体は翌16日に引渡しを了しましたが、憤激したフランス公使ロッシュは、在阪中の各国公使と協議の上で、下手人の斬罪(処刑)、賠償金15万ドル、政府と藩主の謝罪、など五ケ条からなる抗議書を提示しました。

あたかも当時は泉州摂津の間に各国の軍艦が碇泊していたので、日本新政府もすこぶる憂慮し、イギリスの公使との協約もあり、対外和親の実を示すためにも、止むなくフランス側の過酷な要求を受諾し、大阪裁判所の宣告により、2月23日に堺の妙国寺境内にて、隊長箕浦猪之吉ら20名に切腹を申し渡します。

当日、立合いにはデュブレクス号の艦長デュブテイ・トゥアールを始め、両国側の代表者がずらりと居並んで検視します。日本武士がその面目において潔く切腹するという事は、かねてから「ハラキリ」という名で外国人の間にも驚異の的となっていましたが、さすがに目の当たりに見るのはこれが初めてでした。

やがて箕浦隊長以下が首の座に現われ、先づ立会いの面々に一礼すると、フランス人の方をぐっと睨みつけ、

「日本武士が最後を見ておけ」

と言わぬばかりに見事な割腹振りを見せます。

ところが外国人にとっては見事どころではなく、鬼気迫るものがありました。次から次へと残虐な割腹の有様には、顔色青ざめ震え上り、とても正視できるものではありません。

切腹が10人まで及んだ時分には、外国人悉くビッショリと冷たい汗をかいて、自分たちの腹の辺りが疼きだして卒倒しそうになったので、11人目が済むと、これ以上辛抱できないと俄かに立ち上がった艦長は、外国局判事五代才助に、

「残りの者の切腹はもう止さしてくれ」

と申し出ます。しかし五代才助は、

「否、お約束の通り最後までお見届け下され」

と、泰然と申し出を断ります。

「イヤ、どうか残りの人の命は助けてやってくれ」

と、艦長は言い残してあわただしく軍艦に逃げ帰ったのでした。

残りの9人は助命(のち流罪)され、翌日、外国事務局督山階宮晃親王らが公使に謝罪して解決となります。

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