- 2008年2月19日 00:02
- 1904年(明治37年) | 広瀬武夫
旅順港の出入口は幅約290メートルの水路で、大型艦船が通れる幅はわずかに91メートル。
連合艦隊が大挙して旅順に入る事はできません。ですから連合艦隊はロシア艦隊が旅順港から出てきたところをとらえて海戦に持ち込むしかありませんが、ロシア艦隊も然るもので一向に旅順港から出てきませんでした。
このままでは、ロシアが本国のバルチック艦隊を旅順に差し向ければ、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊に挟まれる形で応戦しなければなりません。戦局は大いに不利になることは必至であり、思い切った連合艦隊は、旅順港口に老朽船を沈め、港内のロシア艦隊全部を封鎖し、これを袋の鼠にしようという作戦に打って出ます。
といっても、閉塞隊の任務は、探照灯が海面を掃くように照射し、砲台からの猛撃が確実視される敵の陣地での作業であり、自ら死地に飛び込むようなものです。まず生還は期しがたいといえます。よって、東郷平八郎司令長官は各艦から隊員希望者を募ってこれに当てようとします。
ところが、あっという間に約2,000名という多数の希望者が「我も我も」と先を争って願出て、ある艦では全員が志願し、中には指を切って血判書を認め、是非その一員に加えて頂きたいと嘆願する者もありました。結局は、係累の少ない者を各艦から公平に選び定員67名を選抜します。
閉塞隊は五つの隊に分け、
第一閉塞隊(天津丸) 有馬良橘中佐 他16名
第二閉塞隊(報国丸) 広瀬武夫少佐 他15名
第三閉塞隊(仁川丸) 齋藤七五郎大尉 他15名
第四閉塞隊(武揚丸) 正木義太大尉 他12名
第五閉塞隊(武州丸) 島崎保三中尉 他14名
将官、下士官合わせて計77名で編成されました。
日頃寡黙と呼ばれた東郷平八郎司令長官でしたが、部下の意気壮烈な殉忠奉公の精神に接し、思わず、
「閉塞隊の成功は既に見えたぞ」
と感激の言葉を洩らしたと云います。
(作戦は2月24日に決行されますが、しかし、失敗に終わります...)
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