- 2008年2月22日 00:19
- 1877年(明治10年) | 乃木希典
鹿児島の私学党が大挙して事を起すという急報に接した熊本城下では、同鎮台司令長官谷干城少将が、小倉分営の歩兵第十四連隊に来援を命じたのが2月13日、19日には先発一大隊が熊本城に到着、これに続いて乃木希典の率いる本隊は20日に久留米を出発、21日の午前7時には熊本市外川尻において薩摩軍1万3千と戦端を開いたのでした。
東軍互いに譲らぬ攻防戦は、22日の夜に入って、一旦退くかと見えた薩軍の一部が植木に逆襲し、第十四連隊の旗手河原少尉が戦死し、明治天皇親授の連隊旗は、むざむざと敵手に奪われてしまったのでした。
この事は乃木希典の心肝を痛く苦し、責任上その夜のうちに割腹して、罪を謝する覚悟でしたが、軍務に負われて遂に果たし得ませんでした。同年4月22日、中佐に昇進して鎮台参謀に昇進後間もなく、ある夜密かに、今宵こそはと覚悟を定め、将に軍刀逆手に割腹しようとしましたが、児玉源太郎少佐に発見され、言葉を尽くしての切々たる慰撫に会い、遂に素志を果たすことができませんでした。
それからも軍旗を奪われた痛恨事は、乃木の胸を常に苦しめ、密かに割腹の時期をまち、いつかは必ず責任を果たさねばならぬと固く誓いつつも、その覚悟のある事は決して人に語るべきでないと決心していました。
さればこそ、1912年(大正元年)9月13日、明治天皇の御後を慕い、静子夫人と共に自刃殉死した当時の遺書第十条の最初の第一条に
自分此度御跡を追ひ奉り、自殺候段恐入候儀其の罪は輕からず存し候、然る明治十年の役に於て軍旗を失ひ、その後死處を得度く心掛け候もその機を得ず、皇恩の厚きに浴し今日迄過分の御優遇を蒙り、追々老衰早御役に立ち候時も餘日これ無く候折抦、此度の大變何共恐入り候次第、茲に覚悟相定め候事に候乃木大将遺言書(第一条)より
とある通り、いかに当時の責任感が乃木希典の生涯を支配したかを察することができます。
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