- 2008年2月29日 00:19
- 1873年(明治6年)
閏年は平年より1日多く2月が29日となります。
一年間の日数、すなわち地球が太陽の周りを一回転する時間を正しく調べると365.2422日となります。そこで1年間を365日とすると、毎年0.2422日の過剰が出てきて4年目には0.9688日となり、ほぼ1日分となるので、4年目毎に1日を加えて365日、すなわち2月が29日となるのです。
この計算方法はユリウス暦と称して、西暦紀元前45年、ユリウス・カエサルが、アレクサンドリアの天文学者ソシゲネスの助力により、初めて制定したのがその起りだと云います。しかるにユリウス暦法によると上の計算の通り、4年目毎に41分51秒の不足を生じ、400年間には3日間の不足を生じることになります。
そこで、400年間には3回の閏年を省く必要があるというグレゴリス暦法が用いられます。
この暦法は西暦1582年、ローマ法王グレゴリウス13世が、天文学者のクラヴィウスに頼み、新たに制定された暦法であって、「西暦年数が4で割り切れる年を閏年とする。但し、100で割り切れる年のうち、4で割り切れない年は平年とする。閏日は2月28日の次の日」とします。この暦法は太陽の周期との誤差が、1万年に3日程度であり、世界の文明国では総てこのグレゴリオ暦法を用いています。
日本では1873年(明治6年)1月1日(陰暦では明治5年12月3日)からグレゴリオ暦法(新暦)を用いるようになりましたが、それまではもっぱら陰暦が用いられていました。陰暦では平年を12ヶ月とし、時々1ヶ月の閏を加えて、1年を13ヶ月として調整を計ったので、例えば、慶應4年(明治元年)の4月は普通の4月と閏4月と2回重なっており、更にそれより3年目の明治3年には普通の10月と閏10月とが重なっています。
よって、日本の暦に閏何月と称したのは、明治3年が最後になります。
例えば、歴史の上で、北条勢が楠正成の赤坂城を攻めたのが元弘3年2月22日、それから播磨の大山衆徒が護良親王の旗下に応じて勤王の義兵を挙げたのが、同じ元弘3年2月22日です。ただし後者は閏のため一ヶ月違いとなります。
さらに陰暦では2月30日というのがあります。
陰暦の大の月は必ず30日まで、小の月は29日と定められているので、2月に限らず大の月に当れば30日、小の月は29日で終わります。
もちろん太陽暦には、2月30日という日は絶対に無いので、有名な俳人其角の命日(寛永4年2月30日)をそのまま今日の太陽暦に持って来て其角忌を記念する事はできません。
この場合は、太陽暦に換算した4月2日とするのが良いいのかもしれません。
そこで歴史上の記録で、2月30日というのがあったら、陰暦に決まっており、また何時の月に限らず31日という記録があれば太陽暦ということになります。
明治5年までは、日本で陰暦を用いたのは、中国から文化が移入された関係で、東洋諸国は古来長い間陰暦を用いていました。
東洋ばかりでなく、ギリシャでも古代は陰暦を用い、やはり小の月を29日、大の月を30日としていました。ギリシャのメトンという天文学者が、19年間に閏月を7回加える方法を考え出したのが、西暦紀元前433年というから随分古いことで、これが陰暦のメトン法といいます。中国の暦もこのメトン法と同じでありました。
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