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山岡鉄舟、駿府城に乗り込み西郷隆盛と会見する

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山岡鉄舟

1868年(慶應4年)3月9日、西郷吉之助(西郷隆盛)が駿府に江戸城討入の本陣を置いて、しきりに術策を廻らしていた所へ、江戸の使者として訪ねて来たのが、幕府麾下にその人ありと知られた山岡鉄舟でした。

山岡鉄舟は幕臣としての地位はさほど高くはありませんでしたが、頗る理事に通じ、国家を思う赤誠に富み、剣の道にかけても稀に見る達人でした。

同年2月12日、15代将軍徳川慶喜が江戸城を出て、

「国の為め民のためとて今しばし忍ぶが岡に墨染の軸」

と歌を誦み、上野の寛永寺に謹慎するに及び、鉄舟も将軍に謁して初めてその胸中を知るを得ます。

だが、将軍の恭順にもかかわらず、幕府の残党はどこまでも官軍に反抗しようと戦備を進めつつあるに対し、西郷吉之助を総大将とする官軍もまた江戸城を粉砕して、一挙に幕軍殲滅を期し、互いに虎視眈々、危機将に眼前に急迫していました。

あたかも3月6日、官軍の先鋒が江戸城を目指して六郷川を渡ろうという時、勝海舟より西郷宛の和平解決相談の書面を握った彼、山岡鉄舟は、益満休之助と同道して駿府への道を急いでいた。

途中幾度なく官軍の誰何を受けたが、薩摩藩士だと偽って、漸く駿府の城に西郷と面会を得たのが、翌々3月9日であった。

この時鉄舟は、

「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」

と大声で名乗って通ったと云います。

西郷が即座に開いた勝の書面には、

「無偏無党、王道堂々矣、官軍都府に迫ると雖も、君臣謹しんで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民と雖も皇国の一民たるを以ての故なり」

とあって、以下全文に海舟の苦衷と誠意とが徹しており、西郷も痛く感動して、

「勝先生の書面の趣、よく解り申した。朝廷に於ても決して戦を好むんじゃ無かと言うて下され」

と両者の間に暫くは意見を交わされたが、共に大局に立って事理整然、共鳴せざるを得ず間もなく主客の間に酒饌が運ばれて、且つ飲み且つ吟じ、胸襟を開いて大いに談じたと云います。

後に西郷は、鉄舟を評して、

「あんな生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような男はどうにも始末に困る。だがそいういう男でなくてはともに天下の大事は語ることができない」

と語ります。

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