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陸軍記念日(奉天会戦の大勝利)

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クロパトキン

1905年(明治38年)3月10日の奉天会戦は、日露戦争中でも両軍の運命が決せられようという、最後の大陸戦でした。

難攻不落の旅順も、同年正月元日の未明に陥落して、総崩れとなって敗退したロシアの陸軍は、クロパトキン将軍を総司令として、奉天に集結し頑強に抵抗したのでした。

当時ロシアの兵力は約30個師団、戦闘員32万の大軍を、左右及び中央の三軍に編成し、カウルパルス、ビルデルリング、リネウィッチなどの各大将が、2月25日、雪辱戦の決意で一斉に攻撃に出ます。

ところがその二日前の23日には、川村景明大将の率いる右翼の鴨緑江軍が、早くも敵に先んじて攻寄せたので、ロシア軍は周章狼狽、最初の作戦計画も急に変更して、大部隊を東方へ移します。

この隙に乗じて日本軍は乃木将軍の率いる左翼軍が急進又急進、すわなわ奉天の西北に進出したので、クロパトキンは大いに狼狽し、西方の守りを固くしろと命じます。しかしロシアは既に作戦の始めから蹉跌を起こし、しかも決死的強行の日本軍が、左右腹背より包囲の陣形でひた押しに攻めかかったので、これには抵抗し得ず、3月7日には早くも退却を開始、翌々9日にはクロパトキン自ら、「吾遂に包囲されたり」と悲鳴の電文を本国に送るという状態でした。

日本軍の総勢約20個師団、25万の兵力中、戦死傷者7万27人、ロシアの死傷者約9万人、捕虜約2万2千人、鹵獲、軍旗3旒、砲48門という数によっても、いかに大激戦であったかが想像されます。

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