- 2008年3月24日 00:01
- 1895年(明治28年) | 明治の人々

佐藤進
1895年(明治28年)3月24日、日本にとって誠に忌まわしい不祥事が起りました。
この日午後4時、下関に滞在中の清国の講和全権大使李鴻章は、最終日の講和談判を終えて、春帆楼から旅館の引接寺へ帰る途中、外濱町に掛かろうとする折しも、小山豊太郎という一凶漢のため左眼下を狙撃されます。
気丈な李は傷口を抑えて宿所へ引揚げますが、この椿事に、談判出席の諸大官何れも上を下へとうろたえ、即夜東京大学医学部教授佐藤進博士に出張治療の大命を下します。
あたかもこの日は、皇后陛下が、広島病院へ傷病兵御慰問行啓遊ばされいて、佐藤博士は御先導を申上げ、任務を果たして旅館へ帰ったところでこの異変を知り、「直ぐ出張せよ」との命令に、取るものも取敢えず下関に急行、大吉桜に陸奥外務大臣を訪ねると、伊藤博文も来合わしており、
「今度の狙撃事件は実に我国にとって一師団や二師団の敗軍以上だ」
と、真っ青になっていました。
博士は直ぐに李鴻章を診察し、子息李経芳の希望で弾丸の摘出手術に依らず、傷口だけを治療します。朝に夕に傷の手当ては勿論のこと、包帯の取替えまで一切自分の手で行います。もしこの治療がうまく行かねば日清の外交上に大影響を来すと考えた博士は、全手腕全神経を傾倒してこれに当たります。
畏くも明治天皇の御軫念は一通りでなかったが、天佑と博士の手腕と相俟って、李の負傷は日増しに快方に向かい、4月6日には包帯を解去るまでに到って、一同ホッと胸を撫で下ろしました。
李はそこで初めて傷口を撫でてみて、
「この傷口の凹みが平らになる法はあるまいか」
と相談した。博士は、
「植肉手術をすれば治らないこともありませんが、貴方も嫁入り前の娘ではないだろうし」
と返答すると、李も
「いいや、国へ帰ると笑われますからな」
と呵々大笑し、博士も初めて一世一代の重荷を下ろして哄笑しました。
佐藤進博士は1845年(弘化2年) に常陸国生れ、1869年(明治2年)ドイツに留学し、普仏戦争における軍陣医学を実地に学び、帰国後順天堂で外科治療と経営に従事しました。
佐藤博士については、上記の大手柄以外にも、幾多の逸話が伝えられていますが、博士こそ日本最初の軍医であり、ドイツに留学した最初の医学者でもありました。
官軍の奥州征伐に従軍し、陣中で傷病兵の治療に活躍、兵部大輔大村益次郎から感状を貰ったという履歴以来、陸軍職務のため大いに貢献し、明治10年の西南戦争では、大阪に陸軍臨時病院が設立され、佐藤博士は33歳の少壮で陸軍軍医監に任命され、約8,000名の負傷兵を手術し、寺内元帥の右腕大手術にも成功しています。
また明治24年10月末の美濃地方大地震には、二千数百名の重軽傷者のため、寝食を忘れて活躍したという具合に、常時外科医としての手腕は博士と肩を並べる者はありませんでした。
- Newer: 「甲賀源吾という男は天晴れな勇士であった」(宮古湾海戦)
- Older: 陸軍で初めて「伝書鳩」を飼育する



