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「甲賀源吾という男は天晴れな勇士であった」(宮古湾海戦)

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宮古湾海戦
宮古湾海戦

「甲賀源吾という男は天晴れな勇士であった」

上記の言葉は、1869年(明治2年)3月25日の宮古湾海戦での、幕府残党軍の脱走艦「回天」艦長であった甲賀源吾へ哀悼の意を表した東郷平八郎の言葉になります。

榎本武揚を中心とする函館政府は、北上する明治新政府の艦隊が宮古湾に立ち寄ることを想定し、新撰組の土方歳三を隊長とする「回天」・「蟠龍」・「高雄」の三隻からなる艦隊を出動させ、同湾で「ストーンウォール号」(日本名甲鉄)を奪い取る計画を実行しました。しかし、「蟠龍」が荒波で遅れ、「高雄」が機関部の故障という事態の中で、土方歳三が搭乗する「回天」のみで宮古湾に突入します。

湾内には8隻の官軍の軍艦がありましたが、このとき、回天の船尾にはアメリカの星条旗が掲げ油断させておいて浸入し、碇泊するストーンウォール号(甲鉄)に突進する直前に、「日の丸」を掲揚し、同号奪取に向けて戦闘に入ります。

この作戦は、国際法に精通した榎本の奇策でありましたが、しかしながら、新政府軍の所有するガトリング砲の前に艦長の甲賀源吾をはじめ50名以上の死者を出したことにより失敗に終わります。回天は、戦局の不利をみとり、函館港に向けて退去しました。

この時、東郷平八郎は、「春日」艦の備砲を指揮する三等士官で、年まさに23歳の青年士官でありました。

彼はこの戦闘によって、二つの大きな教訓を得ました。

  「大和魂は、また文明兵器の魂ともなる」

  「よもやと思う所へも敵は来る」

これを、東郷平八郎は一生を通じて、不壊の鉄則として深く脳裏に銘じたと云います。

前者の「文明兵器」という点で、ガトリング砲というこの機関砲は1分間に数発の弾丸を発射する回転式連発銃で、アメリカのガトリングが発明しましたのでこの名があり、現在の機関銃の前身をなすものです。機関銃が初めて海戦で使用された最初の出来事でありました。

続いて後者の意味は「油断大敵」という意味を表したものであり、東郷元帥は、後の日本海海戦20周年記念の海軍演習が挙行された際に、約3000名の来賓に対して「治而不忘乱」と東郷元帥が揮毫した石版刷りの色紙を贈って、国民の覚悟を促したという話があります。

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