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広瀬武夫、死す (第二回旅順口閉塞作戦)

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広瀬武夫の絶筆
広瀬武夫の絶筆

1904年(明治37年)2月24日の第一回旅順口閉塞作戦に失敗した日本海軍は、それから約一ヵ月後の3月27日に第二回閉塞作戦を決行します。

再び福井丸を指揮して 旅順口閉塞に赴

七たび生まれて国に報ぜん
一死 心堅し
再び成功を期し
笑みを含みて船に上る
明治37年3月22日   武夫

その約1週間前の3月22日に広瀬武夫は兄と慕っていた川島令次郎大佐に、

「第二次閉塞として、福井丸を指揮し、・・・・・・なお一層の成功を見んと欲す。所謂、一再にして巳まず、三、四、五、六、七回迄人間に生れて国恩を報ぜん」

という手紙を出します。

その「福井丸」乗船中、3月25日に艦隊司令部の秋山真之が訣別にきます。これが友人との最後の歓談となったのでした。

3月27日午前3時30分、船隊は旅順港口に突進します。

しかし、ロシア側は、いっそう厳重に日本軍を警戒していたため、まず「千代丸」(有馬大佐)が発見され、哨艦と砲台から撃たれ、港口手前の水道入り口で自爆。「福井丸」(広瀬少佐)は、それよりやや前方に進んだところで、駆逐艦の放った水雷のため爆沈。「弥彦丸」(斉藤大尉)は、その左側で自沈。「米山丸」(正木大尉)は水道中央でやはり水雷をうけて沈没します。

各船とも水道付近まで達することはできましたが、閉塞には成功できませんでした。

この時、広瀬武夫は、行方不明になった杉野上等兵曹のことを案じながら福井丸を離船。決死隊を収容する衛艇を求めて荒波の沖合いに漕ぎゆく途中、巨弾を身にうけ戦死します。

享年36歳でした。

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